左内公園(福井市左内町)

 福井市内から桜橋を渡って「左内」交差点を左折するとすぐに、左内公園。
 左内公園は橋本左内の生家跡で、左内の墓と像があります。
 

 

 橋本左内 天保5年3月11日(1834)〜安政6年(1859)10月7日
 幕末の福井藩士。
 福井城下常盤町(現春山2丁目)で出生。
 父の長綱(ながつな)は奥外科医として藩主に仕えた。
 左内は通称で、名は綱紀(つなのり)、景岳などと号す。
 幼年より学問が好きで、10歳のときに『三国志』を通読したとか・・・。
 中国宋の武将岳飛(がくひ)を景慕し、景岳と号したのは12歳の時。
 15歳のとき「啓発録」を書いた人・・・(^^;)。

左内公園内にある碑

 藩の医学校済世館で漢方医学を学び、吉田東篁に入門。
 嘉永2年(1849)、大坂の緒方洪庵の適塾に入門し、梅田雲浜、横井小楠らと交流。帰国後は藩医として父の跡を継ぐ。

 安政元年(1854)江戸遊学の許可を得、坪井信良、杉田成卿に蘭学を学び、塩谷宕陰に漢学を師事。江戸では西郷隆盛、安島帯刀、藤田東湖など諸藩の有志と親交を結ぶ。
 安政2年夏、藩命により抜擢され書院番となる。
 安政4年正月、24歳で藩校明道館の学監同様心得になり、教育改革に取り組む。
 8月、江戸に登り、藩主松平春嶽に近侍。中根雪江と協力して条約問題や将軍継嗣問題等について奔走した。世界的視野を持った国家体制の構想を持って、幕府や諸藩の有志と親交を結ぶ。特に、将軍継嗣問題や外交問題は、朝廷の意見を尊重し、幕府の独断によるべきではないと京都の公卿にも説いた。
 井伊直弼が大老に就任後、反対派諸候を厳罰に処し、春嶽も隠居・謹慎を命じられた。
 安政5年(1858)10月22日、謹慎を命じられ、安政の大獄による幽囚生活を送った後、井伊直弼により死罪に決定。
 安政6年(1859)10月7日、26歳の若さで江戸伝馬町獄舎において斬首。墓碑は、左内公園にある。
 命日の10月7日に左内公園で行われる墓前祭には、多くの市民が参列する。
 生家跡は春山2丁目に石碑あり。

 

左内公園内の橋本左内の墓所 


奥の細道 芭蕉宿泊地洞栽宅跡

 左内公園の一隅に、奥の細道の途中立ち寄った芭蕉の宿泊地の碑と芭蕉の句碑が立てられている。
 

芭蕉宿泊地 洞栽宅跡の碑

 名月の見所問ん旅寝せんの句碑

福井は三里計なれば、夕飯したゝめて出るに、たそがれの路たど/\し。爰に等栽と云古き隠士有。いづれの年にか江戸に来りて予を尋。遥十とせ餘り也。いかに老さらぼひて有にや、将死けるにやと人に尋侍れば、いまだ存命してそこ/\と教ゆ。市中ひそかに引入て、あやしの小家に夕顔へちまのはえかゝりて、鶏頭はゝ木ゝに戸ぼそをかくす。さては此うちにこそと門を扣ば、侘しげなる女の出て、いづくよりわたり給ふ道心の御坊にや。あるじは此あたり何がしと云ものゝ方に行ぬ。もし用あらば尋給へといふ。かれが妻なるべしとしらる。むかし物がたりにこそかゝる風情は侍れと、やがて尋あひて、その家に二夜とまりて、名月はつるがのみなとにとたび立。等栽も共に送らんと裾おかしうからげて、路の枝折とうかれ立。漸白根が嶽かくれて、比那が嵩あらはる。あさむづの橋をわたりて、玉江の蘆は穂に出にけり。

 「奥の細道」の福井の一節。

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