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僻村塾記録

雑記帳2

 

シャトー・コンサート2002
福井合奏団

 福井合奏団のコンサートにでかけた。クラシックのコンサートは、勝山では毎年アスペン関連の音楽会が開催されているので、でかける機会は何回かはある。しかし基本的にビートルズやローリング・ストーンズなどというロックを聴いてきた年代としては、今までどちらかと言えば敬遠していた気がする。最近は自分で決めつけないで、その場所に自分を置いてみて、聞いてみてからどう感じたかを考えるようにしている。ま、嫌いなものを無理に聞くこともないのだが・・・(^^;)。
 シャトー・コンサートということで2階の四季の絵が展示されているホールを会場に、約60名ほどの人が集まっていた。季節らしく秋草の絵の前に設えてある舞台。弦、主にバイオリンを主体にしているので耳に心地よく聞きやすい気がする。音が反響してなかなかよかったと思う。会場が縦長な配列なのがちょっと残念だった。演奏している姿が遠くて、前の席の人でよく見えない・・・(^^;)。

プログラム

ロッシーニ 弦楽のためのソナタ 第6番 ニ短調
シューベルト ヴァイオリンと弦楽合奏のためのロンド イ短調 D.438

休 憩

ヴィヴァルディ 2つのヴァイオリンと2つのチェロのための協奏曲 ト長調 F.IVn.RV.575
サリエリ シンフォニア(ベネチアーナ) ニ短調

アンコール

シューベルトの曲から
日本の童謡から 赤とんぼ・浜辺の歌・荒城の月・ふるさと・花・朧月夜

マリンバ演奏会

 夕食を食べている途中に、友人から「今どこ?」という電話。「家」と答えると、「今すぐ来て!」との答え。「今日なんだっけ?」という私の間抜けな質問に「マリンバコンサート」との答え。食事を終えて、急いで桜井邸に駆けつける。しかしすでに3曲は終了していた(^^;)。
 という訳でマリンバコンサート。

 曲目は

T マリンバは楽しい マンハッタン
              セレナーデ
              川の流れのように
              オブラディ・オブラダ
              マリンバと遊ぼう 体験コーナー(きらきら星)

 ーティータイムー

U 秋の夜のお話 3つ 森になったライオン(松原ゆう子)
                あしたは月よう日(はせがわしゅうへい)
                ぽんぽん山の月(あまんきみこ)

V すてきに フルート  マドリガル
                感傷的なワルツ

W 大好きな曲を マリンバで 秋の曲 3曲(里の秋・真っ赤だな・紅葉)
                浜辺のうた
                ムーンリバー
                剣の舞
                ふるさと

アンコール         見上げてごらん夜の星

 狭い場所に50名近い人が集まった。迫力のある演奏、至近距離できける親近感、懐かしい曲あり、お話あり、フルートありとっても楽しい時間だった。最初の3曲が聴けなかったのが残念・・・(^^;)。デジカメを持って行くのを忘れた・・・。            

「里山の少年」   今森光彦著  新潮社

  気まぐれ山歩のホームページのオーナーAさんから、この本が面白いと紹介されて読み始めた。月刊誌「SINRA」(94年1月号〜96年12月号)に連載されていたものを1冊にまとめた内容。
 Aさんの「星野さん亡き後、文章の書ける写真家は今森さん」という評に?と思っていたが、この本を読んで本当にそうだと納得する。
 昆虫に興味を持つ少年の目を通して、その頃の豊かな自然、ゆるやかな時の流れ、人情、時代の空気そんなものが彷彿される。
 自然描写の確かさ、実際に四季折々の美しい自然を見つめてきた人だけに書ける文章、自然描写が退屈ではなく想像できる、美しいと共感できる文章だと思う。星野さんの文章を読んでいると、なぜだか分からないままに涙が流れてくることがあるのだが、今森さんの「仰木の牛」を読んでいても同じ感想を持った。子どもの頃に体験した同じような時代の空気を感じるのか、忘れていたことを思い出させてくれるのか・・・。少年の日に同じような遊びをした人には、きっともっと強烈なインパクトがあるんだろうなと思う。

「未だ続いている杉山川の恐竜発掘事業」 講師 恐竜博物館館長 濱田隆士氏

 9月1日(日)2時〜約1時間30分、濱田館長の講演会があった。
 地元にいながら講演会に参加するの初めて。研修室に約30名ほど、夏休みの最後の一日とあって子供連れの方の参加も目立った。世界的な恐竜発掘のことから、日本全国の恐竜発掘状況など広範囲なお話だった・・・。
 今日は風が強い一日だった。恐竜博士のいるベンチでしばし休憩。取立・赤兎・三の峰?法恩寺・経が岳と見えて気持ちが良かった。

 
 
大人のための紙芝居

 大野市立図書館で「大人のための紙芝居」が開催されるので、お話出てこいの皆さんと聞きに行く。
紙芝居をお話してくださるのは梅田佳声さん、昭和3年生まれの74才だが、その語りは若々しい。
 若い頃には長谷川一夫演劇研究所に入所されていたということで、その話力に引き込まれていく。紙芝居の内容も、「黄金バット」は現代風にアレンジした内容だが、「こすもす」「恩しゅうの彼方に」「猫三味線」は原作に忠実な語りだった。
紙芝居の歴史は昭和5年に始まるとのことで、意外に新しいことにびっくりする。最初はスケッチブックに絵を書きながらお話をして、飴を売ることに人気が出たとのこと。
 「こすもす」は戦争中友達が疎開先の広島で原爆にあってなくなるというお話で、大野市立図書館の「戦争のお話を聞く」という統一テーマの一つの企画であることをお聞きして、スゴイな〜と思った。先日の「この子たちの夏」もだが、統一したテーマを設けて活動されているその姿勢が・・・。 

太郎丸

 昨日学校のうさぎ当番で餌をやりに行った。入り口の近くの穴の中で、太郎丸がぐったり息をしていた。うさぎ小屋を掃除して、餌の準備をしている間も、目は開けているが何だかいつもと違って静かだった。撫でても、餌を口に持っていっても知らん顔・・・。
お花に水を遣って約40分後に戻った時にはもう息をしていないようだった。目は開けたままだった。持ち上げると、首をだらんと下げて、もう自分の意志では何もできない物体と化していた。

 2年前の夏の終わりに村岡小学校にやってきたうさぎ。最初の頃は新参者でいつもメリーやクーに追いかけ回されていた。用心深い性格で、いつの頃からかボスの地位を獲得。今いる子うさぎのお父さん。小屋を覗きに行くと、近寄ってきて、鼻でつんとつついて挨拶をしてくれたけど・・・(^^;)。長生きするうさぎは10年も生きるというが、学校のうさぎは2年ほどの寿命しかないものが多い。太郎丸も2年半ほどの短い命だった。

 狭い小屋の中に11匹も一緒にいることはストレスになるのだろうか?もう太郎丸の凛とした風貌には会えない・・・。

赤ちゃんうさぎの死

 ここのところ「死」というものに敏感になっている。
赤ちゃんうさぎはうさぎ小屋の穴の中で、母親うさぎの毛に包まれた産床で、一日一度母乳を飲むことで大きくなっていく。何かの理由で母うさぎがもう育たないと判断して穴の外に出したのか、ほかのうさぎが面白半分に何かをしたのか・・・、見つかった時にはもう弱々しい息をしていた。穴の中に戻しても、たぶんもう母乳を飲む力も残ってなさそうだった。キーホルダーに付けるパンダのぬいぐるみのような、小さなうさぎ。耳を立てる元気もないのか、耳は寝かせたままだった。

 しばらく様子をみようということになった。
 昼食が終わってから覗きに行った時には、まだひくひくと息をしていた。
 それから1時間ほどしてから見に行った時にはもう、息をしていなかった。短い命の時間しか与えられなかった。こんな小さな命、まだこの世にデビューもしないうちから与えられる死。誰にも看取られることなくひっそりと消えていく命・・・。これが本来の死というものの姿なんだろうなと思う。でも、どんな小さな命でも、消えて行くのを見るのは悲しい、今は特に・・・。

「藤沢周平海坂藩の原郷」 蒲生芳郎著 小学館文庫

 「山の自然学」の合間につい手にとって読み出したこの本が、止められなくなってしまった。山形師範時代の同級生の著者と藤沢周平さんの関わりについて書かれている本。
藤沢周平さんの思い出の最後に「藤沢さんは、私の70年の生涯で出会ったもっとも懐かしい人、人柄の美しい人だった。」と書かれている。人柄の美しい人、良い言葉だと思う。書かれた本を通して感じられる藤沢周平という人の温かさがここからも感じられる。

「内なる島2」

 「内なる島」をようやく読み終えた。随分長い時間をかけて読んだ。
星野さんの写真を文章で書いたのがリチャード・ネルソンと書いた。
 始めはそういう本だと思って読んでいた。鹿の肉を食料に長い冬のために狩猟をする。その鹿を撃つ瞬間の描写や嵐の日のハイダ湾の描写は、スゴイという一言に尽きる。しかし、それだけの本ではなかった。
母を亡くした今、たまたま続きを読んだところに、妻のニータの母が長い癌との闘病生活の末に亡くなることが書かれていた。何故今この本のこの場所を自分が読むことになったのだろうか?不思議な天の配剤を感じる。さすがにこの場所を読むと涙が出た。なかなかいい本だった。

永訣の日

 母との永訣の日は何の不吉な予兆もない、全く普通の日だった。
 幾日かの型どおりの儀式が済んで、母は祭壇の白い壷の中に収まってしまったが、自分の感情の中には、悲しいとか淋しいとかいう思いが欠落してしまったかのように涙も湧いてこない。はたして母のために涙を流せる日が来るのだろうか?母の死を納得していない自分がいる。
 折りに付け母を思いだし,だんだんと、もういないという実感を深めて行くのだろう。そうしたら母のためにたくさんの涙を流せるのだろうか・・・。 

うさぎ

 うさぎのお母さんを見ていると不思議だ。誰にも習わないのに、出産が近くなると小枝や枯れ草を拾ってきて、穴の中に巣を作る。
本当に出産が近付くと自分の毛をむしって、赤ちゃんのための産床を作る。お母さんうさぎのふさふさして艶のあった毛が抜けて痛々しい。またお産のあとは痩せてしまって、骨がゴツゴツしている。
うさぎは鳴かないので、辛いことや痛いことがあっても我慢しているのが健気だ・・・。
 去年猫にくわえられた子うさぎが見つかって、右前足の骨が折れていたことがあった。その子うさぎは不自由になった前足を嘆いているというよりは、そのことを受け入れているような気がした。でも何だか怒ったような目をしていたが、後で考えると、死というものに身構えるような気持ちだったのかもしれないなと思う。結局死んでしまったので・・・。

「内なる島」リチャード・ネルソン著 星野道夫写真 星川淳訳

 「内なる島」を読んでいる。南東アラスカの多島海の中の島で、狩猟採集生活を送る著者の冒険に満ちた生活と、アラスカの豊かな自然が描かれている。亡くなるちょっと前に、星野道夫さんから一緒に本を作らないかと誘われていたそうで、星野さんが亡くなられてから実現した本。

 豊かな感性で南東アラスカの森や海や嵐の様子が描かれていて、手つかずの自然の中での鹿猟の様子、熊に出会った時、ハクトウワシの描写、荒れる波の砕ける音、誰もいない海でのサーフィンの様子等わくわくするような内容だ。

 星野さんの「森と氷河と鯨」の写真を思い出しながら読んでいる。その写真の場所で、実際に生活をしている人がいるということも不思議な気がする。森の倒木が地衣類に覆われて、自然に帰っていく様子など星野さんの写真で表現されている場所が言葉で表現されていて、文章もなかなか文学的でいい。

 訳者の星川さんも屋久島に住み、「屋久島の時間」を出版されている方。アラスカのフェアバンクスで開催された「アラスカ環境会議」で星野さんとこの本に出会ったこともあとがきに書かれている。星野さんと同じテーマで取り組んだ「ベーリンジアの記憶」という小説も書かれているとか・・・、読んでみたくなってきた。

山々の緑

 新緑が鮮やかな季節になってきた。萌葱色の木々の新芽の色が本当にきれいで、先日は沙羅(夏ツバキ)の葉がまぶしいくらいにきれいだったので一輪挿しに活けた。どの木の葉も少しずつ色が違っていて、全く同じ色の葉はない。萌葱色・浅黄色・黄緑色・深緑色・青緑色・・・。昔は秋が好きだったけれど、今は春もこんなにきれいだったのかと思う。昔から春秋の争いとして、春が好きな人・秋が好きな人と争われてきた。若い頃は秋が好き!と思っていたが、今はどちらとも決めがたい・・・(^^;)。
 山を歩いていると、断然春の方が色んな種類の花が咲くのが楽しい。

中島潔が描く金子みすゞ まなざし

 金津創作の森で、「中島潔が描く金子みすゞ まなざし」展が5月10日まで開催されている。中島潔さんが金子みすゞの詩に絵を描いたものと、今まで描いてきた作品約100点が展示されている。なかなか見応えのある作品ばかりだった。

 金子みすゞの詩に合わせて描かれた絵は暗い色調のものが多くて、あどけない少女の絵とともに不思議な世界を作っていた。少女のうなじや髪の毛の繊細なタッチ、風に靡く着物、あどけない少女の顔なのに女を感じさせる色っぽさ・・・。金子みずゞの作品を描いた作品は、重く暗い印象で見ていてちょっと辛いものがあったが、一緒に展示されている他のテーマの絵は明るい色調で、少しほっとする。

http://www.mitene.or.jp/~sosaku-k/event3.html


 食はラ・コンテという美術品の展示ギャラリーのあるお店でいただく(↑)。なかなかステキなお店だった。器やお料理にもこだわりがあって、お水一杯にもレモンが加えられていたりして、値段も良心的でとってもよかった。

魔女文庫訪問

 今日はお話会がある日なので、魔女文庫を見学させていただく。個人の家で文庫を開かれていてびっくりする。壁の四面とも全部絵本や児童書で埋め尽くされていてさらにびっくり。ログハウス風の木の暖かみが感じられて、居心地のいい空間だった。あいにくの雨で子どもたちが来なかったので、私たちにお話を聞かせていただく。「ヤギとライオン」「ひなどりと猫」、読み聞かせ絵本は「ともだちひきとりや」。


眠れない夜に

 夜遅くまでパソコンに向かっていて、さて寝ようとすると、時期を逸してしまって眠れない夜がある。そんな日には横になりながら色んなことを考えている。

 人間嫌いがますます進んでいくような気がするのは気のせいだろうか。「藤沢周平論」の中で、藤沢周平さんを「生きていく喜びよりも悲しみの方がやや多いと感じる人 負を生きる物語」と書いたのは、高橋敏夫さんである。眠れない夜は感傷的になっていて、「うん、なるほど!」と思える。「生きていく悲しみ」は確かにあるんだろうなと。人と分かり合えたと思ったあとから、またすぐに判らなくなっていくのは自分の迷いなんだろうか・・・、それとも分かり合えたと感じたことがすでに幻想なのだろうか?人と人は時間をかけて分かり合えないということをわかっていくものなのだろうか?あたりまえのことだが人間は一人で生まれてきて、また一人で死んでいくしかないのだから・・・。などと、考えても結論の出ないことをあれこれと考えている。

 人間は一人では生きていけないのだが、確かに魂が触れ合ったと思える瞬間もある。そんな時の喜びもまた大きい。人間嫌いといいながら・・・。

「アラスカたんけん記」 星野道夫著

 福音館から子ども向けに出ている「アラスカたんけん記」を読んでいる。 「クマよ」「森へ」に続いて、文章も写真も星野さんが書かれたもの。

 星野さん自身の言葉で、子どもたちに何故アラスカに惹かれるようになったのかや、クマのこと、アラスカで生きることについて書かれている。見開きいっぱいの風景の中にクマの親子がいる写真や、厳しい冬を耐えて咲く花の美しさが映し出されていて、自分が生きていることの不思議さを考えさせられる。また、キャンプを張って撮影する装備一式の写真や星野さん自身の写真もある。一歩間違うと危険が伴う命をかけた撮影状況であったことが伺われる。

 「カリブーの旅」の中で、ヘリコプターが荷物を下ろして去って行くのを見て、

 「気の遠くなるような大きな自然の中にぼくだけがとりのこされました。さみしい気もちもありました。これから一ヶ月、人に会うことはないのです。けれども大きく深呼吸すると、さけびだしたいような自由を感じました。」

 と書かれている。星野さんにとっては不安や寂しさ以上に未知の風景や動物との遭遇が魅力的だったんだろうなと思う。人っ子ひとりいない大自然、見渡す限りの手の加えられていない自然、そんな風景を見てみたいものだと思うがそんな機会はないんだろうな。でも「さけびだしたいような自由」って、わかる気がする・・・(^^;)。

ぴょんたの歯

 久しぶりに開けた引き出しの奥に、ぴょんた(うさぎ)の歯が残っていた。今となっては形見の品となってしまった。死んでしまった時はそれほど思わなかったのだが、今はとっても悲しい。うさぎ小屋を覗きにいっても、もうぴょんたはいないのが、不思議な気がする。

 うさぎらしく好奇心旺盛な、雌のせいか性格は温厚なうさぎ。歯がどんどん伸びてきて、時々切らないと食べにくそうにしていた。2年間の命の時間をとってもうさぎらしく生きた気がする。艶やかなちょっと冷たい手触りの毛並み、さわると気持ちよかったな〜。

 満開の桜の木の根本で今は桜の木の精になる準備中かな?こんなうさぎがいたってことは忘れない。

人の縁とは不思議なもので・・・

 昨日、ホテルで朝食を食べに行こうとエレベーターを待っていると、ちょうどそこに来られた年輩の方が「お食事どこでされますか?」と声をかけられました。朝食は洋食・和食・サンドイッチと3カ所のうち好きな場所で食べることができました。すぐに大泉学園まで行きたくて、時間がもったいなかったので「サンドイッチにします」と答えると、その方は「私は和食」と言われました。エレベーターがなかなかこないので世話話をあれこれして、その方は長崎に今夜行列車で帰ること、飛行機が満席で取れなかったこと、夜まで時間があるので上野の美術館に行くことなどお話をしました。

 ちょうど実家の母くらいの年齢の上品な方でした。時間があったら上野の美術館も行く予定だったので、後ほどまたお目にかかるかもしれないなどとお話をしていましたが、結局時間がなくて行けませんでした。でも短い時間お話をしただけなのに、とっても心に残る方でした。

「1000の風1000のチェロ」いせひでこ作

 絵本の「1000の風1000のチェロ」を読んだ。阪神大震災の復興支援コンサートで1000人の方がチェロを弾くということ横軸に、飼犬を失ってからチェロを習い始めた少年と、震災にあって家がなくなり飼っていた小鳥を空に放した同じくチェロを習っている少女と、震災で家も家族も友人もチェロもなくして亡くなった友人の形見のチェロを弾くおじいさんの3人を縦軸に奏でられる物語。絵本なのに読んでいて、涙が出てきて困った。

本の帯に書かれている言葉

 「ひとりひとりの物語がちがっても きもちを重ねあわせれば 歌はひとつになって 風にのる そして きっとだれかにとどく」が印象的。

黒谷観音

 春になると引き寄せられるように黒谷観音に行きたくなる。

 やさしいお顔の石仏におもわずこちらの口元もゆるんでしまう。全てを抱き取っていただけるような、そんな優しさに溢れている。心を込めて手を合わせる。心を込めてお祈りをする。何だかとっても懐かしいような気がして、また今年も出かけてしまった。

長谷川きよしライブ

  「サライ」で長谷川きよしさんのライブを聞いた。恒平さん(六文銭)以外の人のライブに行くのはいつ以来なのだろうか?曲名をメモリながら、今日は恒平さんのコンサートじゃないのでライブレポを書かなくていいと気が付く。このメモる習慣って病気なのかな?
音叉でチューニングをしてから歌い始める。曲目は

1 「遠く離れたおまえに」
2 「別れのサンバ」
3 「マリー・マリー」 ジルベール・ベコーの曲。出だしがとってもよくて、けだるい切ない曲。
4 「オブリディオン(望郷)」
5 「灰色の瞳」
6 「黒の舟歌」
7 「アルディラ」 小室さんが「アルカディア」という題名で歌っていた曲と同じ。
8 「湖上」 中原中也の詩に曲を付けたもの。
9 組曲「古い未来」より8つのパート 「古い未来」という絵本に中山千夏さんが言葉を書いていて、その言葉のいくつかに曲を付けたもの。
      Ant(あり) Bout(小舟) Eagle(わし) Joy(よろこび) Insect(昆虫) Nest(巣) Quil(鵞ペン) Rainbow(虹)
       Joyの言葉が印象的だった。
    「誰とも争わないあなた 誰をも傷つけないあなた 故郷の歓喜の国から 大いなる喜びは来る
        誰かと争うあなたに 誰かを傷つけるあなたに そしてそれを悲しむあなたに やはり喜びもくる 恥じらいながら」<BR>

10 「アコンテッシ」(忘却)
11 「フラジャイル」 ソルトレイクのオリンピックでスティングが歌った曲。訳詞がとってもよかった。
12 「そして今は」

 アンコールに1曲歌われたが題名がわからなかった。
ギター1本だが、豊かな感性と表現力・声で、吟遊詩人という感じがした。音楽に対する真摯な姿勢は恒平さんと共通するものがあると思った。

 スティングの「フラジャイル」を前から選曲して歌っているのはさすがだと思った。この暴力には暴力でしか解決できないのかというスティングの詩は本当に考えさせるものがあって、いい曲だと思う。

「構造改革で日本は幸せになるのか?」 渡辺治著

 国の財政は私的企業ではやれない福祉や公教育にお金を使う目的が先にあって、そのためにどういう形で国民の負担を求めるのかという制度であり、赤字になってもただちに不健全ではない。きちんと国民のために使われているかどうか、そのための負担が国民に納得いくように行われているかが問題である。財政支出で一番問題なのは公共事業投資である。という本の説明はわかりやすくて納得できる。

久しぶりの山歩き

 先月の初めに裏山に登ってから、どこの山にも行っていないことに気が付いてしまった。時々無性に歩きたくなる。人工の物(パソコン・携帯電話・本・車・CD・・・)に囲まれていると、何にも人の手の加えられていない物や風景が恋しくなる。厳密に言えば、そんなものは白山の山頂にでも行かなければ見られない風景かもしれないのだが・・・。こんな時には簡単に実行できることを考えてみる。

 という訳で、三室山に登ってみることにする。たかが176mだけれど、誰も登った形跡もなく、犬の足跡があるだけ。膝までの雪をラッセルしながら登る。ほんの20分だが、なかなかきつい。写真を撮りながら、春の準備を始めている梅の花芽や、どんよりとした風景の中に沈んでいる我が家の方向を確かめながら歩く。体力を使うので、何かを考える余裕もない。黙々とラッセルを繰り返す。一度も休憩を取らなくても着いてしまう距離なのだが、どんなに低くても山は山だ(^_^)。こんな小さな冒険もうれしい。

 下りの途中に生えている竹林の竹が、雪で折れて無惨な姿を見せていた。折れ口も真新しい竹の色と、瑞々しい色の笹の葉を下に向けた竹が、何本も折れていたのが印象的だった。

 星野道夫さんの「イニュニック(生命)」の中の言葉、

 「ストーブの炎を見つめていると、木の燃焼とは不思議だなと思う。二酸化炭素、水を大気に放出し、熱とほんのわずかな灰を残しながら、長い時を生きた木は一体どこへ行ってしまうのだろう。昔、山に逝った親友を荼毘に付しながら、夕暮れの空に舞う火の粉を不思議な気持ちで見つめていたのを思い出す。あの時もほんのわずかな灰しか残らなかった。生命とは一体どこから来て、どこへ行ってしまうものなのか。あらゆる生命は目に見えぬ糸でつながりながら、それはひとつの同じ生命体なのだろうか。木も人もそこから生まれでる、その時その時のつかの間の表現物に過ぎないのかもしれない。」

 が心に深く残っている。薪ストーブの木の燃える匂い、暖かさ、そして木が燃えてはぜる音。火を見ていると本当にあきない。自分もいつかは二酸化炭素と水とわずかな灰になって土に還ってゆくのも悪くないと、その瞬間は思ったりする。

 自分の思いも感傷も悔いもどこへ漂っていくのだろうか?

「物語と子どもたち」岡田淳先生講演会から

 「こそあどの森」は森の中の帆船をイメージすることから生まれた物語。 主人公のスキッパー少年は森の中のウニマルという、船にウニを載せたような形の家に、博物学者のバーバさんと住んでいる。スッキッパーには学校がなく、バーバさんは家にいないことが多いため、一人でいることが多い。登場人物はドーモさん(郵便局員)、ポットさん・トマトさん夫婦、ドワイエさん(作家)、双子(女の子)など。

 このこそあどの森の設定については、大人社会との継ぎ目のない情報からの自由・多くの人と触れ合う事だけが価値ではない・一人で何かを見て豊かになることを言われていた。何となくよくわかる気がする。

「人間が最初に手を使えるようになって何を握ったと思う?道具?人の手?」。おそらく人の手であろう、それが歴史観である。
 4年前から学校のクラブの時間に演劇クラブを受け持っている。第1回目の公演は「紙風船」。

  陽の当たっている階段で何人かが座っている所へ、本を手に持った女の子が登場。
何の本?黒田三郎の詩集。読んで見てと言われて「紙風船」を読む。

落ちてきたら 今度は もっと高く もっともっと高く 何度でも 打ち上げよう 美しい 願いごとのように

「なーんだ」あまり好きじゃないという感想から、好きなものの話になり

私の好きなもの 食べ物 動物 お母さん 音楽 花 星
  私が嫌いなもの 陰口 ひそひそ話 暴力 犯罪 戦争

戦争は誰が始めるのか 子どもではない 大人 大人にもいろいろ
自然破壊を始めた大人も子どもだった
  子どもも大人になる 戦争を始める大人にはならない
その心を大人になっても持ち続けられるのか? 何故?

生活のため戦争を始める大人にはならない
自然を守る大人になる でも本当にその気持ちを持ち続けられるのか?

という所で、最後にもう一度黒田三郎の詩「紙風船」を読む

 落ちてきたら 今度は もっと高く もっともっと高く 何度でも 打ち上げよう 美しい 願いごとのように

実際にセリフを言う時に、魂に一番近いアクセントの言葉が聞いている魂に響くので関西弁で。
「自然を守る大人になる」というセリフを言う時には、言葉の背後に広がること、自然を守る時に何をイメージするかを考えると説得力を持つ。

  セリフを言っていない時はどうするのか?セリフを話している人のほうを見ながらハラハラする。
皆が一斉に言う場面は、一斉に言わないで自分のタイミングで。
子どもたちはとっても真摯でテレたりしないで演じていた。
本を読む・書くこと、演劇と生身の人間が感じ合える、他のメディアと比べると深く分かり合える。
文章に書くと何だかまとまりのない記録になってしまったが、本当にいいお話だったが表現力(-_-;)が・・・。

「ダライ・ラマ」

 今年の年度(平成12)当初の読書のテーマは、仏教について勉強することだったが、研究発表関連で時間がとれず結局何も読めなかったので、今頃になってあわててダライ・ラマ「幸福になる心」を読み始めた。昨日図書館に行ったついでに同じくダライ・ラマの「幸福論」と「母なる地球の子どもたちへ」を借りてきた。今日たまたま「未来への贈り物」という池澤夏樹さんのビデオを見ていたら、カーマチャプラの儀式の様子もあった。ダライ・ラマを頂点とするチベット仏教の最高の儀式。「7 YEARS IN TIBET」の映画を見て、原作を読んでから、ダライ・ラマという人に興味を持った。しばらくこの方向で仏教を探ってみようと思う。

人の心をはかりかねて・・・

 白山も初冠雪して秋ももうすぐ終わり。厳しいけれど、雪景色の美しい季節がまたやってくる。最近は人の集まりよりも自然に魅せられてしまって、人の集まる所へ行くのがおっくうになっている。自己嫌悪に陥るのも人によって、また、救われるのも人によってだ。人間って、生きているのってなかなかやっかいだ。そう思う傍らからわずかの人の好意で勇気づけられている、不可解な自分がいる。

刈込池

 月曜日も雨だったが、今日も帰る頃には雨模様。刈込池から三の峰は雲の中で全く見えない。紅葉はまだまだきれいだったが、風が強くて、時々落ち葉が真横に吹き飛ばされて行った。風がない時の湖面は、黄葉したブナの黄色やもみじの赤が水に映って、湖面に黄色や赤が静かに浮かんでいた。お天気がよかったら三の峰も湖面に映るはずなのに・・・。弱い風が吹くと、湖面に立ったさざ波が風上から風下に向かって移動して行くのがとてもきれいだった。池の周囲には落葉が吹き寄せられて、海岸線のように周囲を取り巻いていた。

 池に来る途中の山々の紅葉がきれいだった。今年はもうたぶん来ることのない打波川沿いの山。また来年こそ三の峰に登れるかな?  

人形浄瑠璃

 大野の朝市で淡路人形浄瑠璃があるとチラシに書いてあったので、行って見る。トラックが舞台になっているのだが、語りの音が小さくてあまり聞こえなかったのが残念だった。大阪の人形浄瑠璃だと、太夫さんは顔を見せていて、羽織袴の正装だけど、淡路の浄瑠璃は人形の使い手が3人とも黒子の服装をしていた。でも、人形の表情は本当に人形とは思えないほどいきいきとしている。

 

「17歳」が心をひらくとき 能重真作著、新日本出版社

 制度研の夏季集会の学習講座の中で、長野県短期大学の小林先生が、この本から何回も引用されていたので、読んでみようと思った。

 閉塞的な世代背景の中で、学校を追われた子どもたちが行き場のないいらだちから引き起こす凶悪な事件が増えている。そこまで行く前に、子どもたちは親に色んな形でサインを送っている。そのサインを見逃さず、子どもに寄り添って、子どもを信頼して、話をよく聞くことが大切だと、色んな事例を挙げて説明してある。父親が仕事にかまけて子どもに無関心であったり、夫婦の仲が悪かったりするなど、子どもが安心していられる家庭がいかに大切かを感じた。子どもたちは敏感な感受性で何かを感じ取ってしまうけれど、なかなか思っていることを親には言えないのかもしれない。

経が岳

 家から少し離れると、経が岳が真っ正面に見える。雲の間から柔らかい光が斜めに経が岳に差し込んでいた。

 少しお天気が悪い日は山頂は雲の中。今日は深い緑に包まれて経が岳はどっしりといつもの場所にあった。あの山頂までいったんだと思うと不思議な気持ちになる。つい10日ほど前に登ったところなのに、何だかずいぶん昔に登ったような気がする。

 ブナの少し紅葉を始めた林の中を、歩いた記憶・・・。ささやぶの中の宇宙遊泳、つくばね草の青い実。見下ろすばかりの深い谷。 馬の背のような尾根の道。そしてどこまでも続くブナの林。ナナカマドの実が赤くなっていた。ウルシもマルバマンサクの紅葉もとてもきれいだった。経が岳の秋はまだ始まったばかりだった。 

「TOGISM 2001」

 ここのところドライビングニュージックとして、東儀秀樹さんの「TOGISM 2001」を聞いてはまっている。曲目が日本古来の笙の曲ではなく、ポピュラーな聞きやすい曲が多いこともあるが、高い音色はサックスを連想させるとてもせつない甘美な曲に仕立ててある。浜田省吾のバックバンドの古村敏比古さんのサックスの音色に似ている気がするのは気のせいか・・・(-_-;)。インターネットで東儀さんを検索してみたら、他にも何枚かCDを出されていることがわかった。日本古来の曲も出されているようだ。ぼちぼちそろえてみようかな?

山歩き

 山を歩いていると思索的になる。たぶん話しながら歩くことはできないからかもしれないけれど・・・。辛い登りになると、人と話をする余裕もなくなって、自分自身との孤独な心の煩悶の世界になってしまうからなのだろう。だから、山を登る人の文章は思索的な文章が多いのかもしれない。

 なぜ辛いのに山に登るのか、なぜ一度行った山に何度も登るのか・・・、たぶん一度として同じ風景はないから・・・。
 お天気の様子、花の種類、一緒に登る人、食べたもの、雲の形、風の強さ、季節、自分の年齢、山もやっぱり一期か〜。

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