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                            「凍」 沢木耕太郎著
           
 沢木耕太郎さんの「凍」を読み終えた。
 「垂直の記憶」の著者山野井夫妻に取材し、ギャチュンカンでの登山の経緯を中心に二人の生い立ちや登山歴、日常も描かれている。
 丹念に取材しその時々の二人の心境や思いなどを交えたノンフィクションの作品となっている。

 ギャチュンカンで凍傷を負い入院中の山野井氏が沢木耕太郎氏の本の読者であることから、誘われて沢木さんが見舞った。
 凍傷で指を無くしたのに普通の温度で生きていること、妙子夫人の包み込む暖かさ、そしてクライミング中心の揺るぎないライフスタイルに強い好感を持った。退院後、二人がギャチュンカンに残した登山用具の回収に行くことを決めたことで、沢木氏の書きたいという気持ちにスイッチが入ったと書かれている。そしてその回収作業に同行する。

 帰国後、週1回のペースで約半年間山野井夫妻に取材する。1回の取材時間は4〜5時間をかけ、計3回ギャチュンカン登山の経緯を繰り返し聞いて生まれたのが本書である。

 沢木氏はクライミングには全く素人であることから、クライミングの知識のない人にもわかるよう、たとえばアルパインスタイルの登山とはとか、専門用語の説明も交えて書かれているので読みやすい作品になっている。

 また、山野井夫妻のクライミング界での位置・考え方・今まで登った山・夫婦の関係などについても書かれている。
 山野井氏は自作の「垂直の記憶」の中では淡々とヒマラヤの8000mの山々と自分との関係を中心にクライミングを描くが、それが世界的にどういう位置にあるのか、他者との関係を交え第三者の視点に立って書かれている。
 エピソードを交え、その中から二人の夫婦としてのあるいは登山家のパートナーとしての関係や人間像が浮かび上がってくる。
 生活の中心に山を置き、それに向かって無駄なものをそぎ落として生きているような、ただ山に向かう山野井夫妻のストイックな生活が浮き彫りにされる。

 「垂直の記憶」と合わせて読みたい本だ。ただ「垂直の記憶」の前にはどう書いてもかなわない気がする。
                           「垂直の記憶」 山野井泰史著

                 雑誌「考える人」の編集長の松家さんがメールマガジンの中でこう書いている。
 − 「ほんもの」の人の言葉は、かならず人の胸に届きます。それは言葉が巧みであるか否かを問いません。ごつごつしていても、訥々としていても、手慣れない言葉のほうがかえって届く場合があります。書かれたものではない、その人の口から直接に語られた言葉には、口調や体温、人柄が漂います。だからこそゴマカシが効かない。嘘がつけるじゃないかと言うかもしれません。しかし嘘はいつかはばれるもの。確かな耳と目さえあれば、虚飾は透けて見えてきます。−
 
 山野井さんの「垂直の記憶」はまさにそういう本物の言葉が詰まった本だ。
 アルパインスタイル(酸素ボンベを持たず、装備をできるだけ軽くし、ベースキャンプから一気に山頂を目指す方法)のソロ(単独で登る)と呼ばれる登山法でヒマラヤなどの山を登った記録が主に書かれている。
 ロッククライミングから雪と氷の峰へ、日本の山から世界の山へと広がってゆく。
 荷物を極力少なくして、シェルパやポーターの力も借りず、自分の登山技術と体力そして最小限の装備で高い山に登ってゆく。
 ヒマラヤのギャチュンカン(7952m)では登頂後の下山途中でのビバーク、吹雪や雪崩に巻き込まれたりして決死の生還を果たすが、結局右足の指5本と、両手の指5本を失うことになる。奥さんの妙子さんは両手の指10本を失う。
 一歩間違えば1000m下の氷河、薄い酸素、雪崩、凍ってゆく指・・・。
 どうしてそこまで・・・、と思うがそこにあるのは山と自分だけの世界だ。誰にも頼れない、自分の力を出し切ってあらゆることに対処してゆく。
 入院中、一時は山を諦めようと思ったが、退院後、また初心者の山歩きから始める。
 クライミングも少しずつ練習を再開し、今年7月ポタラ峰北壁の初登頂を成功させる。

 何故山に登るのかという問いには、結局山が好きだからという答えしかないのだろうと思う。
 山と自分、その間には何も必要としない。
 8000mを越す雪と氷と岩 の世界は計り知れないが、自分が登る低い山でも感じるものは多い。
 山にまで人間社会を持ち込みたくない、純粋に山と対したいという思いはよくわかる。
 大人数でベースキャンプを設置しながらの登山は、テントで寝る場所も入り口の寒い所よりは一番奥の少しでも暖かい所へとか、山頂へアタックしたいのはみんな同じ思いだろう。自分一人ならそういうことも思い煩うこともない。自分の好きな時にアタックし、無理だったら自分の判断で中止すればいい。ただ何か起こった時は自分の責任で全てを対処するだけだ。
 スポンサーを求めず、自分で費用を稼ぎ、山にだけ集中する日々。
 失ったものを悔やまず、今のままで何ができるか常に前を向いた視線からたくさんの勇気をもらった気がする。
 読んでいて知らず知らずのうちに涙が出ていた。
 松家さんの文章のように、真実の言葉は心を打つ。とてもいい本だった。                                                       
                           「読む力は生きる力」  脇明子著
                                                                                    
 岩波書店から発行されている脇明子さんの「読む力は生きる力」を読み終えた。
 自分がなぜ子どもたちに絵本を読むのかということの原点を改めて考えさせてくれた本だ。
 本の好きな子どもたちを育てたいということははっきりしている。しかし、なぜ本の好きな子どもを育てたいのかという理由をはっきりこうだと言い切れない自分がいたりする。本を読むことがどうしてそんなにいいのか、きちんと言葉で説明するには、何の根拠もなく、自分が読んできた経験しかないので、それがどんな意味を持つのかうまく表現できないのだ。

 子どもたちは色んなことを通して生きるということを学んで行く。それがスポーツであっても音楽であっても、映画を見ること、マンガを読むこと、友達と喧嘩をしながら、親の愛情を受けながら、遊びながらでも、何であってもいいのだ。
 今の子どもたちの置かれている環境は、自然もなく、塾や習い事で友達と遊ぶ時間もなく、兄弟も昔に比べて少なく、隣近所の付き合いも少なく、テレビやゲーム・マンガなどなどで自然と触れ合う時間もない。昔は本など読まなくも自然があり、隣近所の大人がおり、時間に関係なく遊びを通して色々な人間関係を学ぶ場所があった。

 この本の中で、本を読むことがどうしていいのか、その理由がきちんと書かれている。
 
 @昔は生きて行くのに役立つ生活文化にしっかり支えられていた。
 A子どもが大人の生活ぶりや仕事を観察する機会が極端に乏しくなった
 B大人のほとんどが伝えるべき生活文化を持たなくなった
 C伝えるべきものを持った大人に出会っても、子どもはもはや大人に興味を示さなくなった(TV・ゲームパソコンに夢中)
 
 「大切なのは生活文化を伝えることなにの、進歩に目を奪われた私達は教育が「伝える場」「手渡す場」であることを忘れ、子どもたちがより幸せな人生を獲得することばかりを願うようになってしまった。受け継いでいつかは自分がまた手渡すことが大切なことだと実感できれば学ぶことを無意味に感じている子どもたちも意欲を取り戻してくれるのではないか・・・。
 伝えることの大切さを実感させるには本を読むことがすぐれた手段となりうるのではないか。」

 人間が生きていくのに衣食住が必要だがそれだけではだめで、自尊心=自分には生きてゆくだけの価値がある・生きていてもいいんだと思えることが大切だ。そしてそれを育むのが家庭の愛情であり、生活に彩りを添える文化(お花を活ける・お料理の盛りつけを考えるなど・・・)が心の余裕を生み出し、自尊心を与えてくれる。それが積もって揺るぎないものになってゆく。それをまた大人は子どもに手渡してゆくことが大切で読書もその一つだ。

 映像では決して代用できない読書の価値は、読むという精神活動にある。
 その精神活動は、
 書き言葉レベルの言葉を使う力、
 想像力(その場にないもののイメージを思い浮かべる能力)、
 全体を見渡して論理的に考える力だ。コンピュータは全体を見通すことができない。

 メタ認知能力(自分の頭の中で進行していることを一段上から観察し、制御するモニター力)が十歳前後から発達してくる時期が思春期の始まりで、「感情の脳」がしっかり発達し「考える脳」のための環境づくりをする必要があるらしい。
 「感情の脳」が発達するとは感受性が豊になることで、感受性とは心の持っている感度のことである。
 心の感度がいいというのは、デリケートな表現で押さえた感情でも的確に感じ取れるということだ。  

 子どもの読書力を育てるには良い本を届けなければならない。

 何だかとっても考えさせられる本だった。
 映像と本の違いを、言葉にできないことをきちんと整理して説明してあってとてもよくわかった気がします。
 絵本から児童書へ移行する途中で挫折する子どもたちも多く、そこをうまく渡れるようなアドバイスも納得できる。またその観点で絵本を選ぶと、絵が文章の邪魔をしている本も多いので、選書の難しさも責任の重さも感じた。
 良い本の選び方や新しいいい本の紹介などがあると心強いと思った。                                        
                        「夜明けの森、夕暮れの谷」 湯川豊著

夜明けの森 夕暮れの谷湯川豊さんの7月に発行されたばかりの新刊エッセイ集、「夜明けの森、夕暮れの谷」を読んだ。
 「イワナの夏」に続く2冊目のフライフィッシングについてのエッセイだ。
 フライフィッシングとは、
 「フライというのは主に水性昆虫を模した毛鉤のことで、日本でもテンカラという漁法があった。3m程の竹竿に、馬の尻尾の毛を撚り合わせた糸を結び、その先に自作の毛針を付けて渓流でヤマメを釣る。
 フライには重さがないので重さのあるライン(糸)を前後に振り、その反動で遠くに飛ばし魚を釣る釣り方をフライフィッシングという。」
 映画「リバー・ランズ・スルー・イット」で描かれている川釣りの世界と言えば一番わかりやすいだろうか・・・。

 何編かのエッセイの中で一番印象に残った好きな作品は「カラス天狗のイワナ」だ。作品の舞台もお隣の白峰で、僻村塾に講師に来られるようになった経緯もよくわかり、また脇役で登場する人物も想像できるのでよけいに親近感があるからかもしれないのだが・・・。
 「文春図書館」の「私の読書日記」の中で池澤夏樹さんが、「すっかり山に入って暮らしている江沼次助という男の話がいい」と書かれている。やはりいいと感じる所は同じということなのだろう・・・。

 フライフィッシングのエッセイの中でこの作品だけ少し変わった人物を描いている。
 白峰で釣りをする作者がカラス天狗のような容姿の男が投網漁をしてイワナを取っている場面に出くわす。
 その男、江沼次助は漁法は昔ながらの金沢の毛鉤や投網漁だが、釣りが好きで白山麓へ女房と移り住み昔ながらの焼き畑農業で生活している。5年ほど経って女房が谷峠で車の事故で亡くなる。
 ある時作者は、ダム湖の流れ込みで年に数日のチャンスに巡り会う。そこでたまたま男と遭遇し、一緒に釣ることになる。
 「今年も、いた」と短くいいながらフォッフォッフォッと笑う男の姿を描くが、その声が聞こえるようだ。男の姿に釣り師の孤独の影を見る作者。
 男は疲れて白峰を去るのだが、残された家には梨の木が花盛りで、死んだ女房が好きだった花だと言った男の横顔を思い出す所で終わっている。
 若い頃は何でもできるような気がするが、女房に死なれて一人で年齢を重ねて生きてゆく男の姿には孤独の影がつきまとう。いくら好きなイワナ釣りをすることができても、冬の厳しさ、焼き畑農作業を一人ですることには限界がある。女房がいたから耐えられたことも一人では耐えられない。淡々と書かれている文章の中から、限りない人間への愛おしさのようなものが伝わってくるような気がする。
 池澤さんは「ひょっとしたらこの次助という男と同じ道を辿ったかもしれないもう一人の自分を透かして見ているかのようだ。」と書かれている。
 形や方法が違っても、魚を釣ることに打ち込む男の中に自分の姿を作者は重ねて見ているのかもしれない。
 生きていくことって何だろう・・・。ものすごく色々なことを感じさせられ、また考えさせられた文章だ。                              
                        「運命を分けたザイル」

 「運命を分けたザイル」 のビデオを見た(公式ホームページはここです)。
 「TOUCHING THE VOID」はどう訳すのだろか、「感動させる空間」それとも「空間に触れること」・・・?
 原作は「死のクレバス ・アンデス氷壁の遭難」、ジョー・シンプソン著のノンフィクションのベストセラーを映画化した作品。山岳文学賞のボードマン・タスカー賞やすぐれたノンフィクションに与えられるNCR賞を受賞している。(神戸大ホームページ 平井一正先生のリーダーのあり方を参照)

 ジョーとサイモン・イェーツは未踏峰ペルーのアンデス山脈シウラ・グランデ(6356m)西壁に登る。
 登頂は成功するが、下山途中に事故が起きる。
 ジョーとサイモン本人がインタビューに答える画面を挟みながら、実際の登攀場面を描いてあるので、この登攀から二人が無事に生還できたことは初めからわかっている。だから安心して見ていられるのだが、それにしても6000mの氷の雪庇の張り出した山頂の画像は美しいと同時に恐ろしさも感じさせる。目のくらむような絶壁をどうやって下るのだろう。手に汗を握りながら、ドキドキしながら画面を追った。

 下山途中、ジョーが足を滑らせて滑落、右足を骨折してしまう。この時点でジョーを置いて、サイモンが助けを呼びに行くと言っても文句は言えないのだが、サイモンは雪に穴を掘って自分を支点にしてジョーをロープで下ろす単独救出をする。50mのロープの半分に結び目を作り、25m下ろした所で結び目がカラビナに引っかかって止まる、そしてジョーが左足を使って自分の体重を確保する間に結び目を通す、そしてまた25m下ろす、という方法を取る。下が見えない状況でジョーを下ろすので、何回目かの下垂でジョーは張り出した氷の壁にひっかかって宙づりになってしまう。
 
 サイモンはジョーがいくら待っても自分を確保しないで、ロープが引っぱられたままであることに疑問を持つ。ジョーは短いロープを使ってロープに結び目を作り懸垂で登ろうとするが、かじかんだ手ではうまくいかず、短いロープの一つを落としてしまう。、そのうち二人の体重を支えているサイモンの下の雪面が崩れ出し、このままでは二人とも滑落してしまうことからナイフでジョーを切り離してしまう。ジョーの死を確信するサイモン。ジョーはクレバスに落ち、雪の棚に引っかかりかろうじて助かる。サイモンを呼んでも聞こえない。この時点でジョーもサイモンが死んだと考えサイモンを錘にロープを登ろうとロープをたぐると先が切られている。サイモンは生きている。クレバスをはい上がるのは無理と判断したジョーはロープを使ってクレバスの下に降りることを決意する。もしクレバスが深ければとロープの先に結び目は作らないで下降する。
 
 クレバスからの脱出に成功するが、その先には長い長い瓦礫の上を片足で歩くという苦行が待っている。20分という目標を決めて亀のような歩みでベースキャンプにたどり着き、生還する。ジョーがサイモンに「ありがとう、あれでいいんだよ」と言った言葉、ロープを切断しなければ二人とも生還できなかったことは事実だ。サイモンがパシングされ、それを擁護するためのこの本を書いたという。誰もサイモンを責められないし、人間は自分の感情を全く抜きにして人を裁けないと思う。ただサイモンはロープを切り、二人は助かったという厳然とした事実があるだけだ。

 二人が今後この遭難のことをどのように考えながら生きていくのだろうか・・・。
 ジョーの本はその一つの答を示している。ジョーは最初からサイモンを責めてはいない。サイモンはこれからの人生でロープを切ったという事実を抱えて生きていかなければならない。もう済んだ問題だと本人が思っても、世間がそれを覚えている。似たような遭難事件が起こるたびに過去の遭難を持ち出してあれこれと言う人がいることだろう。自分を卑下することなく信ずる道を歩いて行ってほしいと思う。
         
 「死のクレバス アンデス氷壁の遭難」ジョー・シンプソン著を一気に読み終えた。
 面白かったと書くと語弊があるが、遭難当時の実際の写真やルートも書かれていて状況が手に取るようによくわかる。
 80度の垂直に近い斜面を登ったり降りたり、読んでいるだけで胃が痛くなりそうだ。冬の低い山でも高度が増すと、登る時は後ろを振り返りたくなくなるが、そんな斜面を下るのは緊張の連続で気が抜けないだろう。
 6000mもの山を登る人々は自分たちとは違って、ちょっとやそっとのことでは動じないのではと思っていた。しかし、みんな同じ人間なんだなあ〜と、危険を感じるたびに迷ったり死の恐怖を感じたりするジョーの人間的な心の動きに、読んでいて一喜一憂した。
 友情・信頼・裏切り・絶望・恐怖・迷い・逡巡・意思・希望・感謝・・・、読んでいて色んな感情を味わった。
                                                                
                         「心の声に耳を澄ませて・・・」

 子どもの頃母に、「この子は感受性の強い子で・・・」とよく言われたものだ。
 大人になってずいぶん年を重ねても、人と人との関わり方に思い悩むことがある。人生の色々な場面で、傷ついたり傷つけられたり、喜んだり悲しんだり、それは人と人がいる限り、自分が生きているかりぎ続いてゆくのだろう。自分の心が怒り傷ついた時、それをそのまま相手にぶつけるのではなく、自分の心の底にある思いに耳を澄ませて見ることも時には必要なのだろう。どんな言葉に自分は傷ついたのか、傷ついた自分の心は本当はどうしてほしかったのか。心の底の言葉をじっくりと見つめることで、本当の自分の気持ちに気が付くことがあるのではないだろうか?
 売り言葉に買い言葉ではなく、その言葉を言った人の心の底にあるものを推し量ってみる、そういう心の深さが必要だと思う。
 本当に大切な人との間では、たとえ一時的にそんな言葉を吐いてしまったとしても、信頼関係を根底から崩すことにはならない。そんな簡単な簡単なことで崩れてしまうような人間関係ならきっとそれはその程度のものだったのだろう。
 無意識にふっと話した言葉は、きっと心の奥底の魂の部分からの声なのだと思う。自分が思ってもみなかった言葉を自分が話しているそんな時がある。ああ、自分ってこんなことを本当は思っていたんだ・・・そんなふうに思うことがある。本当に大切なものを見失わずにいられる心を持ちたいと思う。でもきっとそんなことを考えなくても大切なことは自分の魂がちゃんと覚えていてくれ。心配しなくて大丈夫、きっと人と人の魂は深い部分で繋がっている。この頃そんなことを考えている・・・。
おはなしでてこいスペシャル2004 H16.11.13

今年も11月13日第二土曜日にお話出てこいのスペシャルを開きました。
大それた物ではないですがそれでも企画から準備まで、結構時間がかかりました。
当日は親子で100名あまりの方々が見にきて下さいました。
絵巻の「おおきなおいも」は30mもあり、絵本を書き写す作業も大変でした。
また、巻いた物をまた巻き戻す作業が結構大変で、何回も練習ができませんでした。
また巻き上げ担当の人は体力的にも大変でした。
何はともあれ無事に終わり、ほっとしています。
           
1 手遊び きびだんご
2 大型絵本 月曜日はなに食べる
3 おはなし 犬の足
4 おはなし ついでにペロリ
5 手品 おもしろブック・とびうつるハンカチ ・3色ロープ
6 紙芝居 ふしぎなげた
7 絵本 クレリア
小さな体操 頭肩膝ぽん 目耳鼻口
8 巻絵 おおきなおいも
9 手遊び 一郎さんと花子さん
10 データビューア ねぎぼうずのあさたろう その3
                                                                     看板うさぎどんぐり
アレンジフラワー手遊び きびだんご月曜日は何食べる
おはなし 犬の足全体の様子お話 ついでにペロリ


プログラム入り口

絵本 クレリア絵巻 おおきなおきも紙芝居 ふしぎなげた
絵巻 おおきなおいもねぎぼうずのあさたろう その3絵巻 おおきなおいも
手品 おもしろブックねぎぼうずのあさたろう その3おみやげ
                                                             
「他力」 五木寛之


 「他力」の中にこんな言葉があった。・・・「最近の免疫論の中から導入された、<地球免疫論>という考え方があります。この理論は、地球を1個の生命体と考えて、生存する草木や動物や人間を、地球が<自己>か<非自己>かを判断し、自己の一部と見なせば<寛容>し、<非自己>の場合は拒絶的に排除する、そういう考え方です。」 ・・・星野道夫さんの「イニュニック」の中の「あらゆる生命は目に見えぬ糸でつながりながら、それはひとつの同じ生命体なのだろうか。木も人もそこから生まれ出る、その時その時のつかの間の表現物に過ぎないのかもしれない。」・・・ という考え方と繋がるような気がする。ガイヤシンフォニーの龍村監督の考える「ガイヤ」という考え方は、「母なる星地球は、それ自体が一つの巨大な生命体としての仕組みを持っており、私達人類もまた、その人智を越えた複雑、精緻な生命の仕組みの一部分として生かされている。」J.ラブロック「ガイア理論」からとられている。                

                         ウォン・ウイン・ツアン with 朝崎郁恵コンサート   H16.2.7 於:みくに文化未来館

プログラム

@うみ
A春の小川

Bインディアンサマー
C水のうた、森のねむり 

D今日ぬほこらしゃ(今日のめでたさ)
Eあさがお節(最高の祝歌)
F五木の子守歌
G行きゅんにゃ加那(行ってしまうのかな・・・)

休憩

H海より遠く
I夏祈ったこと
J心の時代
K運命と絆
L勇気と祈り

Mおぼくり(ありがとう)
N海
Oティクテングワ(星のなまえ)
P塩道長浜(地名)
Q行きょおれ
R赤とんぼ

 一日中雪模様のお天気で、そろそろ屋根雪下ろしをしている時に、三国まではなかなか遠かった。除雪車の後をついてゆっくり車を走らせる。帰り道はがたがただったが、何とか家まで無地にたどり着く。
 ウォンさんのコンサートは、「Doh Yoh1.2」の中から1曲ずつ「うみ」と「春の小川」から始まった。
 ウォンさんを聞きはじめたのもこのアルバムからだった。童謡なのに、ウォンさんが弾くとその旋律は童謡を越えて、日本とか郷愁とかもっと多くの広がりをもった曲になる。ご本人は土曜日に童謡などと駄洒落を飛ばしていたけれど・・・。

 「Fragrance」から「インディアンサマー<冬の陽だまり>」、「九寨溝」から「水のうた、森のねむり」。
 九寨溝とは9つの村のある中国の谷で、美しい湖が100以上ある。段々畑、細いが樹齢100〜200年の木々、自然環境の厳しさが木に宿って森は長い眠りを、悠久の時を過ごしている。ハイビジョンスペシャル「中国の桃源郷 〜 原始の森の湖沼群・九寨溝〜」、120分のドキュメンタリーのためにウォンさんが音楽を担当し、同名のアルバムが発売されている。

 続いて朝崎さんが登場。奄美大島の島唄の第一人者。伴奏を三味線からウォンさんのピアノに変えての歌声。
 低い声と裏声が何とも不思議な魅力の歌声。言葉がわかったらもっとよく理解できたと思うが・・・。
 朝崎さんの歌声はキュートで素朴で、とっても味わい深い。
 「五木の子守歌」は、奄美の言葉を当てはめて唄われた。平家の落ち武者伝説が奄美大島にもあって、「敦盛のことは忘れられない」という歌詞が歌われた。

 休憩の後はウォンさんの新しいアルバム「海よりとおく」から3曲演奏された。
 その後また朝崎さんと一緒に歌とピアノ。
 「行きょおれ」はウォンさんは鳥肌が立つと言われていた。この曲の時も歌詞がわかったら・・・と思った。
 「赤とんぼ」もよかった。

裏山で・・・

 明日からはお仕事なので、お休みの最後に今日は裏山の2番目の鉄柱まで登ってみた。白山は見えなかったけど、赤兎山や取立山、法恩寺山・経が岳がよく見えた。鉄柱のすぐそばに松の木が4〜5本ある。中の1本が枯れかけていた。一昨年あたりから松や楢の木がたくさん枯れた。地球の温暖化が原因とも言われている。そう言えば松は青森とど松とか寒い地方の木かも・・・。   
 赤松の木だった。秋に松茸を探してみよう・・・(^^;)。周囲に松の幼い木が何本も生えていた。このうち何本が大きくなるか解らないが、松はちゃんと後継ぎを育てていた。松かさもたくさん落ちていて、この中の種からまた何本かが生えてくるのだろう。自然は脆いように見えても結構しぶといのかもしれない。裏山の中腹で標高400mくらいになるのか。ここまで登ってくるのに40分ほどかかった。もっと高い場所にも杉を植林してあるが、ブナもこのあたりから自生している。まだ実が付いているブナの木があった。ナツツバキの木もあった。ナツツバキは一日しか花が咲いていないので、花期が短い。だからなかなか見る機会がないのだが、いつか花の時季に見てみたいものだ。その前に草が生えすぎて、道がないかも・・・(^^;)。蛇との遭遇はもっと嫌だしなあ〜。
 
 ヤブコウジの赤い実やサルトリイバラの赤い実が美しかった。ミヤマシキミの花芽もきれいな色をしていた。クロモジの花芽がもう付いている。ゆっくりとお昼を食べながら、木の観察をしたり写真を撮ったりした。所々にカモシカの丸っこい糞が落ちている。人が通った跡かなと思いながら道を辿るとカモシカの糞があって、獣道だったりする。今年は一度降った雪がもうほとんど消えているので、餌も採りやすいのだろう。どんなカモシカがどこをねぐらにして住んでいるのか、一度見てみたいものだ。
 昔は薪を拾ったりして、山は今よりももっときれいに整備されていたのだろう・・・。今はもう山で遊んでいる人はほとんどいない。フユイチゴの実も誰も採らないのだろう・・・。間もなく雪の下になってしまうのだろうか。誰もいないけれど不思議と恐いとは思わない。今日も自然に触れることができてうれしい一日だった。

赤松松冬苺
ブナの実ミヤマシキミ松
サルトリイバラ冬芽新芽
 「ぶな森のキッキ」
 今村葦子さんの「ブナ森のキッキ」という絵本がある。11月に名古屋の恒平さんのコンサートへ行く時、福井の駅ビルの二階にある古本屋さんで見つけた。ブナ森に住むリスのキッキのお話。一月はお話出てこいの当番なので、図書館に選書にでかけた。そこで続編の「ブナ森のなかまたち」と「ブナ森の子」を見つけた。                                                                                
なんでもライブ  タイムカプセルコンサート 印象記  H15.12.27 PM4:00〜 於:WAVEホール
 ピアノの講師をされている木下先生の呼びかけで始まった何でもライブ。

 木下先生は水泳が全くダメだったのが、水泳教室に通うようになり泳げるようになった。水泳が全くできなかった自分が泳げるようになったのだからと、音楽を全く経験したことにない人にも音楽の楽しさを知ってもらおうと始めたのがきっかけ。
 音楽教室やピアノを個人的に習いに行っている人、行っていた人。昔習っていた楽器を引っ張り出してきて弾く人。右手だけで弾いたり、楽器の弾けない人は歌ったりと何でもありのコンサート。練習に行く友人について来てそのままライブに出演することになった中学生の野球部の子どもたち・・・。みんなで心を合わせて一つの曲を作り上げる楽しさを味わったことだろう・・・。
 

 Part1は主に小学生を中心に、ソロやアンサンブルの曲。「耳をすませば」「となりのトトロ」「鉄腕アトム」「ひょっこりひょうたん島」「サザエさん」などのアニメや漫画の主題歌やクラシック、ビートルズの「オブラディ・オブラダ」「Let It Be」、ニューミュージックや流行の曲目。

 Part2は主に中学生から大人まで。「G線上のアリア」「輪舞曲(ロンド)」「ソナチネ第三章」などのクラシックをエレクトーンやピアノの演奏で弾いたり、「涙そうそう」をフルートとエレクトーンのアンサンブルでしっとりとした曲に仕上げたり。ヴォーカルと演奏の「世界に一つだけの花」、中年の「勝手にシンドバッド」などなど。
 みんな一生懸命に練習した曲を心をこめて歌ったり演奏したりしていました。

 友人からいつも音楽を聴いているだけでなく自分も楽しまないか・・・と言われて、昔ちょっと楽器を習っていたとポロッと漏らしたのが口は災いの元だった(^_^;)。習っていたというよりは、練習もせずにサボってばかりいたというのが実際の所である。と言うわけで音楽を楽しむどころか、音楽に苦しむ羽目に陥ってしまった私・・・。音楽ではなく音苦(^^;)。
 長い間置いてあるだけだったお琴、爪を探すことから始まった。コツコツと練習をすることが嫌いで、練習もしないでお稽古に通った日々・・・。結果はヘタクソという一言で済む。練習していますか?という友人の言葉がプレッシャーに・・・。練習しても練習してもヘタクソで、結局そのまま当日を迎えてしまった(^^;)。友人の足を引っ張らないようにとただそれだけを願って・・・。
 

 

 プログラム
 Part1 
 1 楽しいワルツ Shimada(P)
 2 森のきりかぶ Maruya(P)
 3 ロボットの行進 Yamamoto(P)
 4 おもちゃのチャチャチャ Okada(P) 石塚講師
 5 耳をすませば Tamaki(E) Tamaki(G)
 6 鉄腕アトム Yamaguchi(P) 石塚講師(P)
 7 ひょっこりひょうたん島 Ishikawa(E) 石塚講師(P)
 8 ドラエもんのうた Kawashima(E)
 9 夢の世界へ Iwaguchi(P) Iwaguchi(P)
10 CHA−LA HEADーCHA−LA Matsumura(E) Matsumura(E) Kinoshita(Dr)
11 おもちゃのチャチャチャ Toriyama(P) 石塚講師(P)
12 サザエさん Hashizume(P)
13 タンブーラン Ikeda(P)
14 フランス人形 Mizumami(P)
15 バースデーマーチ Mitsuya(P)
16 マルボロー Murata(P)
17 タンブーラン Yonekura(P)
18 となりのトトロ Sakano(P) Sakano(P)
19 君をのせて Sakamoto(P) Sakamoto(Vo)
20 Let It Be kawai(P) kawai(Vo&P)
21 ビージーライン Yasuoka(P)
22 メエロディ Yamauchi(P)
23 ロンディーノ Ishiguro(P)
24 Back To The Future Ishizuka(E) Yamaguchi(E)
25 RHYTHA AND PLICE Yamaguchi(E)
26 波乗りジョニー Hosokawa(E)(B)(Dr)
27 オブラディ・オブラダ 美少女隊ちみちあ(E)(P)(E)(P)
28 それがすべてさ Tatuta(Vo) Mitsuya(E) kennai(Dr)
29 Do It Now おてんば娘(P)(E)
30 Heil Holly Queen Michigami(E)(P)
31 シェリーにくちづけ Tuchiya(P) 石塚講師(P)
32 いつも何度でも Matsui(P)(P)
33 涙の海で抱かれたい〜SEA OF LOVE〜  Kitauchi(Vo) Saitou(Vo) Hitota(E) Minamikawa(E) Nakamura(Dr)

Part2

 1 ソナチネ第三章 Simada(P)
 2 G線上のアリア Mori(E)
 3 SARA Abe(E)
 4 TRUTH Kobayashi(E)
 5 クダ・ルンビング(悪霊の踊り) Hatanaka(E)
 6 涙そうそう Nakagiri(F) 木下講師
 7 ブルー saito(Vo) 山本講師
 8 荒城の月 アンプラグド(KOTO)(E)
 9 大きな古時計 ザックバラーズ(Dr)(Vo)(P)
10 世界に一つだけの花 クラッカーズ(Dr)(E)(Vo)(P)
11 ture blue 両手に花(E)(Rr)(P)
12 チェリー Mizutani(EL) Sakakibara(E) Matsukawa(Dr)
13 それがすべてさ チーム・ザ・ポテト(Dr)(E)(Vo&P)
14 輪舞曲(ロンド) キャラメルママ(E)(E)(P)
15 プリーズ・ミスター・ポストマン あい・シスターズ(P)(E)
16 03.Jェチ~ッじoTMウ マリエーズ(Vo&P)(Dr)(E)
17 勝手にシンドバッド(Vo)(Vo)(G)(G)(P)(P)(Key)(B)    

1

2

涙そうそう

 
「魔法のことば」 星野道夫講演集
 「魔法のことば」を読み始めた。県立図書館でこの本を借りるとき友人がなぜ魔法のことばというタイトルなんだろう?と言っていた。私も始めはそう思っていた。読み始めてすぐに理由がわかった。星野さんの講演の言葉を聞きながら、自分の思いが自由に羽を持ったように駆けめぐってゆくからだ。新しいあるいは懐かしい思いを誘発する言葉。だから魔法の言葉だったんだと思った。池澤夏樹さんの解説がいい。                                                                              
「読書からはじまる」 長田弘著 日本放送出版協会

 職場にやってきた移動図書館で何気なく借りた本だった。パラパラとページをめくりながら読んでいたら、引き込まれるような言葉がいくつかあって、読みかけの本を横に置いて一気に読んでしまった。いい本だった。たとえばこんな言葉。
 「本という文化が長年かかって培ってきたものは、本に書かれているものを通してそこに書かれていないものを想像させるちからです。」
 「自分が選び取った言葉のなかに、じつはえらびとられるのが自分なのです。」
 「言葉を覚えるというのは、この世で自分は一人ではないということです」
 「他人に勝つために勉強する必要よりもずっと必要なのは自分を確かにするためにする勉強」
 「自分を確かにするのになくてはならないものは一つだけ。言葉です。」
 「読書の核をなすのは努力です。情報の核をなすのは享受です。」
 「読書というのは育てる文化なのです。対して情報というのは本質的に分ける文化です。」
 「人の不確かな人生に読書がもたらすのは存在の感覚であり、また存在の痕跡です。いつも胸底にある人生の贈り物としての読書についてうたった幕末の、橘曙覧の歌
 たのしみは 人も訪いこず 事もなく 心を入れて 書(ふみ)を見るとき
 たのしみは 世に解きがたく する書も 心をひとり さとり得し時
 たのしみは そぞろに読み行く 書の中に 我とひとしき 人を見し時」

おはなしでてこいスペシャル2003


                                         
「ブルー・ベア」 リン・スクーラー著

 池澤夏樹さんの本の帯の言葉、「星野をめぐるリン・スクーラーの回想を読んで、ぼくは、もういちど星野に会えたような懐かしさを感じた。」という文章に惹かれてこの本を読み始めた。思春期に脊柱側湾症を発病し内向的な性格を強めたリン・スクーラーは人に心を許さないで生きてきたが、誰でも素直に信じる星野さんの人柄に触れて、星野さんに心を許していく。回想の中の星野さんは暖かくて人なつっこい。いい写真を撮るためにかなりの危険を冒し、ガイドと客という関係を越えた友情を育んだ。
 また、星野さんが亡くなった前後の事情も詳しく書かれている。大切な友人を亡くして耐え難い期間を過ごしたリン・スクーラーにとって、悲しみ乗り越えるにはこの本を書くことしかなかったのだと思われる。
 ブルー・ベアという個体数の少ない灰色の毛並みのクマを求めて星野さんと一緒に探し続けた日々が実は一番貴重だったという感想。ブルー・ベアをついに見つけ、そこに星野さんがいないことに対して、「わたしが本当にグレイシャーベアを発見してそれを写真に撮ったのかどうかは、おそらくどうでもよいことなのだと気がついた。明らかに重要なのはグレイシャーベアを追い求めた体験と、そのときに行動をともにした人間だった。重要なのはグレイシャーベアを探しながら見たこととしたことだった。」
 昨日は星野さんの8回忌。平成8年8月8日に亡くなられてすでに7年が経過した・・・(^^;)。
 本屋さんで小学館文庫「星野道夫アラスカ 永遠なる生命」をまた購入してしまった。
 展覧会『星野道夫の宇宙』が8/14〜8/26まで京都大丸で開催されます。 

写真

 随分前に、母が入院していた病院でモンゴルの写真が何点か展示してあった。その中の1枚の写真になぜか心をひかれた。今となっては記憶が随分曖昧になっているが、青空の中に真っ白いパオがあるかなり大きなサイズの写真だった。雄大なモンゴルの草原の青空の中のパオ、そこにかかる大きな虹・・・。モンゴルへは行ったこともないし、行ってみたいと考えたこともないのだがなぜか心ひかれる写真だった。シーナさんが映画「白い馬」を撮っている頃で、モンゴル行きの飛行機に乗ると独特の乳臭い匂いがすると書かれていたが、そんな記憶が心のどこかにあったのかもしれない。アマチュアの写真家の方が撮られた写真だったと思う。

 山に登るようになって記録用にデジカメ写真を撮るようになった。写真を撮ることが主ではないので、時間をかけていい写真を撮るというよりは、きれいだなと思った瞬間を簡単に撮って残しておきたいという単純な理由からである。在るがままに在るように撮りたいと思うのだがそれがなかなか難しい。たかがデジカメ写真だが、なかなか奥が深い。何を撮りたいのかがはっきりしない写真が多くて、写真もやっぱり余分なものをそぎ落としていくことが大切なのだろう・・・。

人形浄瑠璃「化身恋終焉(あだしみのこいのおわりに)
H15.5.5 開演7:00 ラーバンの森

「日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)」より 通称安珍清姫
○真那古庄司館の段
○日高川渡しの段
○道成寺鐘入りの段

 作者:竹田出雲、近松半二
 脚本・演出 吉田勘緑
 浄瑠璃補曲 野沢喜一朗
 音楽・作曲 横田年昭グループ
 打楽器 能美さん
 人形 吉田勘緑・吉田清之助・吉田玉佳・桐竹紋臣・吉田玉勢・桐竹紋吉                       

 会場のラーバンの森の野外に特設ステージが設けられ、夜間照明を使っての舞台。
 今回は三味線と義太夫の太夫さんが来られなかったが、音楽は横田さんの笛と能美さんの打楽器。
 明るかった空も、開演の7時ごろには暗くなって、少し肌寒いくらい。
 ラーバンの森のセミナーハウスの中では、山崎洋子さんの絵画展が開催されている。
 いい絵がたくさんあった。

ラーバンの森ラーバンの森
ラーバンの森ラーバンの森

ラーバンの森おけら牧場のプレートがかかっている。
篝火も焚かれて、雰囲気が出てくる。
最初はまず、人形の動かし方の説明から。
右手と顔の表情・両足・左手と三人で動かすため、息が合っていないとバラバラな動きになってしまう。最初は船頭さんが横田さんの笛に合わせて踊りながらの登場。
息もぴったり合って、お人形ながら本当に楽しそうだ。

会場からの「楽しいやつ」というリクエストに応えたり、色んな表情を作って見せていただく
。船頭・修行僧・清姫・蛇が登場者。

三島由紀夫の「花ざかりの森・憂国」の中に「女方」という小説があったのも思い出してしまった。
歌舞伎では菊五郎さん、玉三郎さんの舞踊を見た記憶があるが・・・。

横笛
人形浄瑠璃人形浄瑠璃

 

 安珍、清姫の道成寺伝説に皇位継承権の争いを絡めた物語。宝暦九年初演。

 朱雀天皇が弟の桜木親王に皇位を譲ろうとするが、反対派が親王の命を狙っており、親王は安珍と名をかえ熊野の真那古庄司の館にたどり着く。そして恋人と再会。ところが庄司の娘清姫が親王とも知らず安珍を恋し、嫉妬に狂って後を追う。
 月明かりの中、道成寺に近い日高川にたどり着いた清姫は船頭を呼ぶが、安珍に金をもらい、姫を川へは渡さないように頼まれている船頭は、清姫を冷たくあしらう。
 どうしても安珍に追いつきたい執念で清姫は大蛇になって川を渡るという物語。

清姫清姫2
清姫3安珍清姫

 恋に身を焼く清姫の姿は悲しい。執着心は恐い。自分を見失ってしまうほどの恋・・・、過ぎたるは及ばざるがごとしか。いつも相手の幸せを願える心の余裕のある人でありたいな・・・。

ガイアシンフォニーV

 「ガイアシンフォニーV」を見た。
 星野道夫さんもナイノア・トンプソンもボブ・サムも、「間に合った」人あるいは世代なのかもしれないと思う。長い間続いてきた昔からの変わらない生活。生活の中に火のある暮らしと言い換えてもいいかもしれない。それを知っている最後の世代が星野さんの世代だと言える。かまどでご飯を炊き、お風呂を薪で沸かす。そんな生活から少しずつ火が失われてその地位を電気に奪われていく。生活が便利になるのと引き換えに、祖先が積み重ねてきた経験や知恵といったたくさんのものを失ってきたこの50年。近代化とは何だったのだろうかと、ふと思うときがある。昔の暮らしと今の暮らしの両方を見てきた世代に課された役割というものがあるとしたら、星野さんはまさしく、捨ててきたものの中に大切なものがあると気づいて、今と過去の橋渡しをする運命を担うべき人だったのかもしれない。映画を見てそんなことを考えた。

 野の花の一日

 福井新聞に連載されている、「医師の目人の目」の徳永進さんのエッセイにいつも心を惹かれる。今日も肺ガンの患者さんのもう間もなく臨終という床で、地区のお寺の住職が「観無量寿経」を唱えられてたことが書かれていた。

 「若い住職の魂が入った、あらゆるもの・ことに光をという無量寿経で、静かな温かなお経だった。医師になって初めて病室でお経を聞いた。」

 と書かれている。普通は亡くなってから読まれるお経が、亡くなりつつある魂に向かって読まれる。宗教とは本来こういうものなのだろう。
 生老病死・愛憎離苦、生きることはいつも悲しみに満ちている。そうして悲しみを感じる自分の心自体もいつか無くなって行く。それでいいのかもしれないが・・・。 

映画「折り梅」

 松井久子監督の映画「折り梅」を見た。舞台は愛知県豊明市。アルツハイマーの初期症状の母を引き取る家族の物語。アルツハイマーを病む母を色んな思いで見守る家族。自分が自分でなくなっていくことに恐怖感を持ち自信を失っている母親自分自身が一番辛いのだろう。その怒りや恐怖感、いらだちを嫁にぶつける。

 様々な葛藤の中で、母が絵を描くことに才能があることがわかり、そのことで自分に自信を取り戻して行く。そうして家族が立ち直っていくという実話をもとに作られた映画。

 人間は誰もいつか年をとって死んでいく運命にあるのだが、つい目の前の忙しさに紛れて普段は忘れている。どんな自分でも生きていていいんだという共感、「どんなになっても母さんには生きていてほしい」という息子の言葉に共感する。

 「世界で一番いのちの短い国」 山本敏晴著 白水社刊

 西アフリカのシエラレオネ共和国へ国境なき医師団の医師として活躍する著者の奮闘記。ここは平均寿命25才という世界で最短の寿命、一番悪い乳幼児・妊産婦死亡率・HIV感染の国。

 国際協力の一番要は、自分がいなくなってもハイレベルな医療体制を現地スタッフでできる医療制度を確立すること、という信念に基づき現地の問題がずっと解決するまで援助を続けていくことが大切であると書いている。

 朝6時から夜9時まで土日もなく医療活動を行う毎日。6ヶ月の滞在期間中に共和国13州中5州の医療体制を最終的に確立する。

 国際協力のキーワードとして6つをあげている。

1 教育とその後のシステムの確立
2 現地の文化・風習の尊重
3 悲惨さを誇張せず彼らも対等の立場の人間として認識する
4 子供を助ける場合、ファミリープランニングすなわちコンドームを配り、これを使うように徹底的に現地の人々に教育することは大変重要
5 お金を与えるのではなく貸す
6 無償で奉仕する人間がいるということを世界に広める

 謙虚に今でも国際協力の形がこれでよいのか、自己満足の世界ではないかという迷いがあると書かれているが、戦闘下の国でこんな活動をされている方がいることに素直にスゴイなと思った。

ドライビングミュージック

 ここのところ通勤のBGMは、ポール・マッカートニーの「ドライビング・レイン」。ドライビング・ジャパンのツアーで歌われた3曲はやっぱり良い曲だ。気分が沈みがちな時には、「ドライビング・レイン」をヴォリュームを上げてガンガン聞く。リピートをかけて何回も聞く。体でリズムをとりながら・・・。ポールの曲はやっぱりメロディーがいいと思う。

「満潮の時刻」  遠藤周作著 新潮文庫

 ガン検診の待ち時間に、遠藤周作さんの「満潮の時刻」を読み始めた。病院で、入院生活の本を読むのも何だかな〜という気がするが・・・。
 遠藤周作さんは中学生時代に「沈黙」を読んで深い感銘を受けた。鎖国時代のキリシタン禁制の踏み絵を踏むという行為を、ロドリゴという宣教師の目を通して描いている。映画も見に行ったが、その後は狐狸庵シリーズ以外はあまり読んでいなかった。

 読書会で久しぶりに「深い河」を読んだ。神の愛を大津という青年を通して真っ正面から描いた作品で、この作品からも深い感銘を受けた。「満潮の時刻」は「沈黙」と平行して書かれた作品だとか・・・。この3冊はキリスト教の神の存在について、形を変えて追求している。

 「満潮の時刻」は、結核で二度手術に失敗して入院中の明石という人物を主人公として描かれる。長崎の異人館で見た踏み絵に付けられた親指の黒ずんだ足跡から、イエスの許しのまなざしを感じるという作品となっている。

 神の存在という根元的な問題について、生涯にわたって真摯に向き合った作家と言いきってしまってよいのかわかならいが、自分の中では遠藤周作という人はそんな分類に入っている・・・(^^;)。       

 「人間復興」の経済を目指して  城山三郎×内橋勝人  朝日新聞社

 効率化を追求する今の時代の方向性は、これで本当によいのかという疑問がいつもあった。そんな疑問に答えてくれそうな本だと思い読み始めた。

 「マネーを至上のものとする価値体系が世界を巻き込み、いっさいの例外を許さないという勢いで着々と築かれつつある・・・」という言葉。人間でさえも例外ではない。教育も同じ。本当にそれでよいのだろうか?

 ・・・・ 「カネとモノのムダを少なくするためには人間をムダにしてもよい」というような倒錯した価値観の支配する経済社会とは、いったいどんな社会なのか。いま少し立ち止まって考えるべきときがきているのではないでしょうか。

 「高度失業化社会」と私は呼んでおりますが、そういう社会の何よりの特徴は、経済、企業の合理化、効率化、リストラなどを大義として、「人間はムダにしてもいいんだ、切り捨てよう」とする社会。そうなりますと、結果において、社会全体としての潜在力は確実に失われていきますね。

 あたら有能な人材がリストラ、倒産、そして失業へ、となれば、その人たちの人間能力を生かすこともできない。社会的損失も大きいでしょう。閉塞感は強まり、人々の不安、不満も高まっていく。あげく、やってくるのが、活力喪失社会であり、結果において失業者はますます増える。

 そうではなく、逆に人間を大切にする、どのような事態のもとでも、モノ、カネよりもヒトが大事なんだ、それを当然とする徹底した価値観があれば、雇用のチャンスもまたおのずから生み出すことができる。介護、医療にとどまらず、人々が求める「社会的有用労働」の分野は常に人手不足の領域なんですから。・・・

 終身雇用制度には問題が多いのかもしれないが、若い人たちが安心して働ける職場、安定した収入を得られる職、結婚して子供を産んで、学校にも行かせて、家も建てられるそんなささやかな夢さえも今は見ることもできないとしたら、それはどこかが間違っているような気がする・・・(^^;)。

 若い人たちが未来に夢を持てないで、不安を感じるのも無理もないという気がする。

 経済関係の本は、ほとんど読まないが、この本は色んなことを考えさせてくれた。いい本だった。

「子どもという希望」 大崎博澄著 キリン館

 高知県の教育長である著者の教育に対する熱い思いが書かれた本。ノートに書き写しておきたい言葉がたくさんあった。

 「教育とは子どもという希望に向かって、信頼のメッセージを送り続けることではないだろうか。裏切られることもあるだろう。現実はそんなに甘いものじゃないと言われるかも知れない。しかし、子どもへの信頼が根底になければ、教育は成り立たないのではないか。」

 「ぼくたちは今、見せかけの繁栄、虚構の豊かさの影で、まことに希望の少ない時代を生きているといえないだろうか。・・・
 少年少女達の心の闇の深さ、その全体を正確にとらえることは難しい。ただひとつ、間違いなく言えることがある。今問われているのは子ども達の問題ではなく、実はぼく達大人の生き方の問題であること。そして希望の少ない時代なればこそ、ぼく達は子どもという希望を見失ってはならないということ。」

 「読売新聞日曜版の『絵は風景』という連載をごくたまに読む。・・・平成10年2月1日付けのそれでは、四竈公子さんの『めざし』が紹介されていた。・・・『人通りの多い道じゃない。自分の見つけた小道を行き、自分にとって価値のあるものを見いだしたい。はずれた一つこそ、私には意味がある。』・・・画面いっぱいに丸い座卓。その上にメザシが六匹。画面の中央に固まって五匹、左上の方に無造作に転がされて一匹。暗い色調の、美しくはない絵。それだけの絵だが、孤独な一匹に注がれる四竈さんのまなざしが、ぼくの『想い』につながる。・・・
 人間の一面的な能力に偏りすぎた世の中の価値感。靴下の色もスカート丈の1センチも融通のきかないばかげた画一主義。息せきって目先の金儲けのみを追い求める競争社会。食べ物もお小遣いも参考書もありあまる過剰社会の中の、恐ろしい人間性の貧困。
 張り裂けそうな彼。孤独が振りかざすナイフを、受けとめてやれるのは何だろう。
 『はずれた一つこそ、私には意味がある。』
 四竈さんの言葉を反芻する。いま、子ども達に伝えたいぼくの『想い』はこの言葉。」

 「人の心の痛みへの想像力を持つこと、人生で一番大切なことはそのことだとぼくは思う。」

 「人生の本当の価値とは、やさしさを知ることだと思う。」

 高知県教育委員会大崎教育長のページ

 http://www.kochinet.ed.jp/somu/kikaku.htm

 やさしさとは、想像力だと思っていたが、同じ考え方の人がいた・・・(^^;)。

「道化口上」 米倉斉加年著

 米倉さんの「道化口上」を読む。西日本新聞に連載されたエッセイを1冊にまとめたもの。宇野重吉さんを師と仰ぎ、演劇の道を歩いた軌跡が書かれている。現在は民芸を退団してフリーで活躍中。なかなか味わいのある本だった。

米倉さんのホームページ
お話出てこいスペシャル2002

 勝山読書会お話出てこい係は、毎月1回第2土曜日に勝山市立図書館で、絵本の読み聞かせ「お話出てこい」を開いています。
 読書週間に合わせて11月には毎年スペシャル版で毎月の活動よりちょっと力を入れて、ペープサートや指人形劇、手遊び、エプロンシアターなども加えて賑やかに開催しています。
 今年は約85名の親子の皆さんが参加してくれました。
 プログラムは

@手遊びT「グー・チョキ・パーで何つくろう」
A紙芝居T「ごちゃまぜカメレオン」
B大型絵本T「はじめてのおつかい」
C紙芝居U「ふたごのまじょ チュラとミュラ」
Dエプロンシアター「ももたろう」
E大型絵本U「すてきな三人ぐみ」
F手遊びU「もしもしかめよ」
G人形劇「コン太とポン吉の人形劇」
Hペープサート「いもころがし」

 9月末から毎週火曜日に練習を始め、11月の第2週に入ってからは毎日の練習。
 急遽都合が悪い人が出てきたり、内容を充実させるためにプログラムを見直したり・・・。
 いつものことでせっぱ詰まらないと練習に身が入らず、スペシャル前日の通しての練習もまだあやふや。
 当日は12時から最後の練習、本番は何とか無事終わりほっとしました・・・。
 練習では大人が相手なので、反応がいまいちよくわらかず照れもあったが、本番では子どもたちの真剣なまなざしや反応に支えられて、どうにか終わることができました。
  


お話でてこい1お話でてこい2お話でてこい3
お話でてこい4お話でてこい5お話でてこい6
お話でてこい7お話でてこい8お話でてこい9

みんなおいでよ!!おはなしランド

 荒土小学校のPTA研修部主催の「みんなおいでよ!!おはなしランド」を聞きに行った。7時からと聞いていたので、7時に行ったら時間が変更になっていて6時からすでに始まっていた・・・(^^;)。後半を聞いた。
 縦笛と鉄琴の合奏から始まった。「いつも何度でも」の他に2曲。
 手品の「ハンカチ」や「人体浮遊術」など、子どもたちは夢中になって見ていた。エプロンシアターは「ジャックと豆の木」、とっても上手だった。お話の読み聞かせはお父さんもいたりしてびっくり。皆さんとてもよかった。「ぼくのすきなやりかた」「わたしのすきなやりかた」「ともだちくるかな」「あのときすきになったよ」など、本も内容をよく考えてあってよかった。

おはなしランド1おはなしランド2
DOH YOH Vol.1(童謡)  WONG WING TSAN

 経が岳に行った時に、こつぶりさんがこのCDを持って来て下さった。ピアニストのウォンさんが童謡を弾いているのだが、童謡を遙かに超して魂を揺さぶるような音楽に仕上げているような気がする。という訳で、このCDを買ってみた。ピアノの深い音色が心に響いてくる。長い年月をかけて歌い継がれて来た曲は、やっぱり腐らない。曲名は以下のとおりです。

 @故郷
 A春の小川
 B竹田の子守歌
 C浜辺の歌
 D星めぐりの歌
 E浜千鳥
 F雨降りお月さん
 Gゆりかごの歌
 H旅愁

  ウォンさんはこう書いています。

 「このCDは、過去の贈り物である童謡をどう引き受け、音としてどう刻印し、連綿と続いてゆく『いのち』の群に託すことができるかという音楽家としての私なりの儀式であり、そして祈りです。」

H14.10.11

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