「凍」 沢木耕太郎著 沢木耕太郎さんの「凍」を読み終えた。 「垂直の記憶」の著者山野井夫妻に取材し、ギャチュンカンでの登山の経緯を中心に二人の生い立ちや登山歴、日常も描かれている。 丹念に取材しその時々の二人の心境や思いなどを交えたノンフィクションの作品となっている。 ギャチュンカンで凍傷を負い入院中の山野井氏が沢木耕太郎氏の本の読者であることから、誘われて沢木さんが見舞った。 凍傷で指を無くしたのに普通の温度で生きていること、妙子夫人の包み込む暖かさ、そしてクライミング中心の揺るぎないライフスタイルに強い好感を持った。退院後、二人がギャチュンカンに残した登山用具の回収に行くことを決めたことで、沢木氏の書きたいという気持ちにスイッチが入ったと書かれている。そしてその回収作業に同行する。 帰国後、週1回のペースで約半年間山野井夫妻に取材する。1回の取材時間は4〜5時間をかけ、計3回ギャチュンカン登山の経緯を繰り返し聞いて生まれたのが本書である。 沢木氏はクライミングには全く素人であることから、クライミングの知識のない人にもわかるよう、たとえばアルパインスタイルの登山とはとか、専門用語の説明も交えて書かれているので読みやすい作品になっている。 また、山野井夫妻のクライミング界での位置・考え方・今まで登った山・夫婦の関係などについても書かれている。 山野井氏は自作の「垂直の記憶」の中では淡々とヒマラヤの8000mの山々と自分との関係を中心にクライミングを描くが、それが世界的にどういう位置にあるのか、他者との関係を交え第三者の視点に立って書かれている。 エピソードを交え、その中から二人の夫婦としてのあるいは登山家のパートナーとしての関係や人間像が浮かび上がってくる。 生活の中心に山を置き、それに向かって無駄なものをそぎ落として生きているような、ただ山に向かう山野井夫妻のストイックな生活が浮き彫りにされる。 「垂直の記憶」と合わせて読みたい本だ。ただ「垂直の記憶」の前にはどう書いてもかなわない気がする。 |
「垂直の記憶」 山野井泰史著 雑誌「考える人」の編集長の松家さんがメールマガジンの中でこう書いている。− 「ほんもの」の人の言葉は、かならず人の胸に届きます。それは言葉が巧みであるか否かを問いません。ごつごつしていても、訥々としていても、手慣れない言葉のほうがかえって届く場合があります。書かれたものではない、その人の口から直接に語られた言葉には、口調や体温、人柄が漂います。だからこそゴマカシが効かない。嘘がつけるじゃないかと言うかもしれません。しかし嘘はいつかはばれるもの。確かな耳と目さえあれば、虚飾は透けて見えてきます。− 山野井さんの「垂直の記憶」はまさにそういう本物の言葉が詰まった本だ。 アルパインスタイル(酸素ボンベを持たず、装備をできるだけ軽くし、ベースキャンプから一気に山頂を目指す方法)のソロ(単独で登る)と呼ばれる登山法でヒマラヤなどの山を登った記録が主に書かれている。 ロッククライミングから雪と氷の峰へ、日本の山から世界の山へと広がってゆく。 荷物を極力少なくして、シェルパやポーターの力も借りず、自分の登山技術と体力そして最小限の装備で高い山に登ってゆく。 ヒマラヤのギャチュンカン(7952m)では登頂後の下山途中でのビバーク、吹雪や雪崩に巻き込まれたりして決死の生還を果たすが、結局右足の指5本と、両手の指5本を失うことになる。奥さんの妙子さんは両手の指10本を失う。 一歩間違えば1000m下の氷河、薄い酸素、雪崩、凍ってゆく指・・・。 どうしてそこまで・・・、と思うがそこにあるのは山と自分だけの世界だ。誰にも頼れない、自分の力を出し切ってあらゆることに対処してゆく。 入院中、一時は山を諦めようと思ったが、退院後、また初心者の山歩きから始める。 クライミングも少しずつ練習を再開し、今年7月ポタラ峰北壁の初登頂を成功させる。 何故山に登るのかという問いには、結局山が好きだからという答えしかないのだろうと思う。 山と自分、その間には何も必要としない。 8000mを越す雪と氷と岩 の世界は計り知れないが、自分が登る低い山でも感じるものは多い。 山にまで人間社会を持ち込みたくない、純粋に山と対したいという思いはよくわかる。 大人数でベースキャンプを設置しながらの登山は、テントで寝る場所も入り口の寒い所よりは一番奥の少しでも暖かい所へとか、山頂へアタックしたいのはみんな同じ思いだろう。自分一人ならそういうことも思い煩うこともない。自分の好きな時にアタックし、無理だったら自分の判断で中止すればいい。ただ何か起こった時は自分の責任で全てを対処するだけだ。 スポンサーを求めず、自分で費用を稼ぎ、山にだけ集中する日々。 失ったものを悔やまず、今のままで何ができるか常に前を向いた視線からたくさんの勇気をもらった気がする。 読んでいて知らず知らずのうちに涙が出ていた。 松家さんの文章のように、真実の言葉は心を打つ。とてもいい本だった。 |
| 「読む力は生きる力」 脇明子著 岩波書店から発行されている脇明子さんの「読む力は生きる力」を読み終えた。 自分がなぜ子どもたちに絵本を読むのかということの原点を改めて考えさせてくれた本だ。 本の好きな子どもたちを育てたいということははっきりしている。しかし、なぜ本の好きな子どもを育てたいのかという理由をはっきりこうだと言い切れない自分がいたりする。本を読むことがどうしてそんなにいいのか、きちんと言葉で説明するには、何の根拠もなく、自分が読んできた経験しかないので、それがどんな意味を持つのかうまく表現できないのだ。 子どもたちは色んなことを通して生きるということを学んで行く。それがスポーツであっても音楽であっても、映画を見ること、マンガを読むこと、友達と喧嘩をしながら、親の愛情を受けながら、遊びながらでも、何であってもいいのだ。 今の子どもたちの置かれている環境は、自然もなく、塾や習い事で友達と遊ぶ時間もなく、兄弟も昔に比べて少なく、隣近所の付き合いも少なく、テレビやゲーム・マンガなどなどで自然と触れ合う時間もない。昔は本など読まなくも自然があり、隣近所の大人がおり、時間に関係なく遊びを通して色々な人間関係を学ぶ場所があった。 この本の中で、本を読むことがどうしていいのか、その理由がきちんと書かれている。 @昔は生きて行くのに役立つ生活文化にしっかり支えられていた。 A子どもが大人の生活ぶりや仕事を観察する機会が極端に乏しくなった B大人のほとんどが伝えるべき生活文化を持たなくなった C伝えるべきものを持った大人に出会っても、子どもはもはや大人に興味を示さなくなった(TV・ゲームパソコンに夢中) 「大切なのは生活文化を伝えることなにの、進歩に目を奪われた私達は教育が「伝える場」「手渡す場」であることを忘れ、子どもたちがより幸せな人生を獲得することばかりを願うようになってしまった。受け継いでいつかは自分がまた手渡すことが大切なことだと実感できれば学ぶことを無意味に感じている子どもたちも意欲を取り戻してくれるのではないか・・・。 伝えることの大切さを実感させるには本を読むことがすぐれた手段となりうるのではないか。」 人間が生きていくのに衣食住が必要だがそれだけではだめで、自尊心=自分には生きてゆくだけの価値がある・生きていてもいいんだと思えることが大切だ。そしてそれを育むのが家庭の愛情であり、生活に彩りを添える文化(お花を活ける・お料理の盛りつけを考えるなど・・・)が心の余裕を生み出し、自尊心を与えてくれる。それが積もって揺るぎないものになってゆく。それをまた大人は子どもに手渡してゆくことが大切で読書もその一つだ。 映像では決して代用できない読書の価値は、読むという精神活動にある。 その精神活動は、 書き言葉レベルの言葉を使う力、 想像力(その場にないもののイメージを思い浮かべる能力)、 全体を見渡して論理的に考える力だ。コンピュータは全体を見通すことができない。 メタ認知能力(自分の頭の中で進行していることを一段上から観察し、制御するモニター力)が十歳前後から発達してくる時期が思春期の始まりで、「感情の脳」がしっかり発達し「考える脳」のための環境づくりをする必要があるらしい。 「感情の脳」が発達するとは感受性が豊になることで、感受性とは心の持っている感度のことである。 心の感度がいいというのは、デリケートな表現で押さえた感情でも的確に感じ取れるということだ。 子どもの読書力を育てるには良い本を届けなければならない。 何だかとっても考えさせられる本だった。 映像と本の違いを、言葉にできないことをきちんと整理して説明してあってとてもよくわかった気がします。 絵本から児童書へ移行する途中で挫折する子どもたちも多く、そこをうまく渡れるようなアドバイスも納得できる。またその観点で絵本を選ぶと、絵が文章の邪魔をしている本も多いので、選書の難しさも責任の重さも感じた。 良い本の選び方や新しいいい本の紹介などがあると心強いと思った。 |
「夜明けの森、夕暮れの谷」 湯川豊著 湯川豊さんの7月に発行されたばかりの新刊エッセイ集、「夜明けの森、夕暮れの谷」を読んだ。「イワナの夏」に続く2冊目のフライフィッシングについてのエッセイだ。 フライフィッシングとは、 「フライというのは主に水性昆虫を模した毛鉤のことで、日本でもテンカラという漁法があった。3m程の竹竿に、馬の尻尾の毛を撚り合わせた糸を結び、その先に自作の毛針を付けて渓流でヤマメを釣る。 フライには重さがないので重さのあるライン(糸)を前後に振り、その反動で遠くに飛ばし魚を釣る釣り方をフライフィッシングという。」 映画「リバー・ランズ・スルー・イット」で描かれている川釣りの世界と言えば一番わかりやすいだろうか・・・。 何編かのエッセイの中で一番印象に残った好きな作品は「カラス天狗のイワナ」だ。作品の舞台もお隣の白峰で、僻村塾に講師に来られるようになった経緯もよくわかり、また脇役で登場する人物も想像できるのでよけいに親近感があるからかもしれないのだが・・・。 「文春図書館」の「私の読書日記」の中で池澤夏樹さんが、「すっかり山に入って暮らしている江沼次助という男の話がいい」と書かれている。やはりいいと感じる所は同じということなのだろう・・・。 フライフィッシングのエッセイの中でこの作品だけ少し変わった人物を描いている。 白峰で釣りをする作者がカラス天狗のような容姿の男が投網漁をしてイワナを取っている場面に出くわす。 その男、江沼次助は漁法は昔ながらの金沢の毛鉤や投網漁だが、釣りが好きで白山麓へ女房と移り住み昔ながらの焼き畑農業で生活している。5年ほど経って女房が谷峠で車の事故で亡くなる。 ある時作者は、ダム湖の流れ込みで年に数日のチャンスに巡り会う。そこでたまたま男と遭遇し、一緒に釣ることになる。 「今年も、いた」と短くいいながらフォッフォッフォッと笑う男の姿を描くが、その声が聞こえるようだ。男の姿に釣り師の孤独の影を見る作者。 男は疲れて白峰を去るのだが、残された家には梨の木が花盛りで、死んだ女房が好きだった花だと言った男の横顔を思い出す所で終わっている。 若い頃は何でもできるような気がするが、女房に死なれて一人で年齢を重ねて生きてゆく男の姿には孤独の影がつきまとう。いくら好きなイワナ釣りをすることができても、冬の厳しさ、焼き畑農作業を一人ですることには限界がある。女房がいたから耐えられたことも一人では耐えられない。淡々と書かれている文章の中から、限りない人間への愛おしさのようなものが伝わってくるような気がする。 池澤さんは「ひょっとしたらこの次助という男と同じ道を辿ったかもしれないもう一人の自分を透かして見ているかのようだ。」と書かれている。 形や方法が違っても、魚を釣ることに打ち込む男の中に自分の姿を作者は重ねて見ているのかもしれない。 生きていくことって何だろう・・・。ものすごく色々なことを感じさせられ、また考えさせられた文章だ。 |
| 「運命を分けたザイル」 「運命を分けたザイル」 のビデオを見た(公式ホームページはここです)。 「TOUCHING THE VOID」はどう訳すのだろか、「感動させる空間」それとも「空間に触れること」・・・? 原作は「死のクレバス ・アンデス氷壁の遭難」、ジョー・シンプソン著のノンフィクションのベストセラーを映画化した作品。山岳文学賞のボードマン・タスカー賞やすぐれたノンフィクションに与えられるNCR賞を受賞している。(神戸大ホームページ 平井一正先生のリーダーのあり方を参照) ジョーとサイモン・イェーツは未踏峰ペルーのアンデス山脈シウラ・グランデ(6356m)西壁に登る。 登頂は成功するが、下山途中に事故が起きる。 ジョーとサイモン本人がインタビューに答える画面を挟みながら、実際の登攀場面を描いてあるので、この登攀から二人が無事に生還できたことは初めからわかっている。だから安心して見ていられるのだが、それにしても6000mの氷の雪庇の張り出した山頂の画像は美しいと同時に恐ろしさも感じさせる。目のくらむような絶壁をどうやって下るのだろう。手に汗を握りながら、ドキドキしながら画面を追った。 下山途中、ジョーが足を滑らせて滑落、右足を骨折してしまう。この時点でジョーを置いて、サイモンが助けを呼びに行くと言っても文句は言えないのだが、サイモンは雪に穴を掘って自分を支点にしてジョーをロープで下ろす単独救出をする。50mのロープの半分に結び目を作り、25m下ろした所で結び目がカラビナに引っかかって止まる、そしてジョーが左足を使って自分の体重を確保する間に結び目を通す、そしてまた25m下ろす、という方法を取る。下が見えない状況でジョーを下ろすので、何回目かの下垂でジョーは張り出した氷の壁にひっかかって宙づりになってしまう。 サイモンはジョーがいくら待っても自分を確保しないで、ロープが引っぱられたままであることに疑問を持つ。ジョーは短いロープを使ってロープに結び目を作り懸垂で登ろうとするが、かじかんだ手ではうまくいかず、短いロープの一つを落としてしまう。、そのうち二人の体重を支えているサイモンの下の雪面が崩れ出し、このままでは二人とも滑落してしまうことからナイフでジョーを切り離してしまう。ジョーの死を確信するサイモン。ジョーはクレバスに落ち、雪の棚に引っかかりかろうじて助かる。サイモンを呼んでも聞こえない。この時点でジョーもサイモンが死んだと考えサイモンを錘にロープを登ろうとロープをたぐると先が切られている。サイモンは生きている。クレバスをはい上がるのは無理と判断したジョーはロープを使ってクレバスの下に降りることを決意する。もしクレバスが深ければとロープの先に結び目は作らないで下降する。 クレバスからの脱出に成功するが、その先には長い長い瓦礫の上を片足で歩くという苦行が待っている。20分という目標を決めて亀のような歩みでベースキャンプにたどり着き、生還する。ジョーがサイモンに「ありがとう、あれでいいんだよ」と言った言葉、ロープを切断しなければ二人とも生還できなかったことは事実だ。サイモンがパシングされ、それを擁護するためのこの本を書いたという。誰もサイモンを責められないし、人間は自分の感情を全く抜きにして人を裁けないと思う。ただサイモンはロープを切り、二人は助かったという厳然とした事実があるだけだ。 二人が今後この遭難のことをどのように考えながら生きていくのだろうか・・・。 ジョーの本はその一つの答を示している。ジョーは最初からサイモンを責めてはいない。サイモンはこれからの人生でロープを切ったという事実を抱えて生きていかなければならない。もう済んだ問題だと本人が思っても、世間がそれを覚えている。似たような遭難事件が起こるたびに過去の遭難を持ち出してあれこれと言う人がいることだろう。自分を卑下することなく信ずる道を歩いて行ってほしいと思う。 「死のクレバス アンデス氷壁の遭難」ジョー・シンプソン著を一気に読み終えた。 面白かったと書くと語弊があるが、遭難当時の実際の写真やルートも書かれていて状況が手に取るようによくわかる。 80度の垂直に近い斜面を登ったり降りたり、読んでいるだけで胃が痛くなりそうだ。冬の低い山でも高度が増すと、登る時は後ろを振り返りたくなくなるが、そんな斜面を下るのは緊張の連続で気が抜けないだろう。 6000mもの山を登る人々は自分たちとは違って、ちょっとやそっとのことでは動じないのではと思っていた。しかし、みんな同じ人間なんだなあ〜と、危険を感じるたびに迷ったり死の恐怖を感じたりするジョーの人間的な心の動きに、読んでいて一喜一憂した。 友情・信頼・裏切り・絶望・恐怖・迷い・逡巡・意思・希望・感謝・・・、読んでいて色んな感情を味わった。 |
| 「心の声に耳を澄ませて・・・」 子どもの頃母に、「この子は感受性の強い子で・・・」とよく言われたものだ。 大人になってずいぶん年を重ねても、人と人との関わり方に思い悩むことがある。人生の色々な場面で、傷ついたり傷つけられたり、喜んだり悲しんだり、それは人と人がいる限り、自分が生きているかりぎ続いてゆくのだろう。自分の心が怒り傷ついた時、それをそのまま相手にぶつけるのではなく、自分の心の底にある思いに耳を澄ませて見ることも時には必要なのだろう。どんな言葉に自分は傷ついたのか、傷ついた自分の心は本当はどうしてほしかったのか。心の底の言葉をじっくりと見つめることで、本当の自分の気持ちに気が付くことがあるのではないだろうか? 売り言葉に買い言葉ではなく、その言葉を言った人の心の底にあるものを推し量ってみる、そういう心の深さが必要だと思う。 本当に大切な人との間では、たとえ一時的にそんな言葉を吐いてしまったとしても、信頼関係を根底から崩すことにはならない。そんな簡単な簡単なことで崩れてしまうような人間関係ならきっとそれはその程度のものだったのだろう。 無意識にふっと話した言葉は、きっと心の奥底の魂の部分からの声なのだと思う。自分が思ってもみなかった言葉を自分が話しているそんな時がある。ああ、自分ってこんなことを本当は思っていたんだ・・・そんなふうに思うことがある。本当に大切なものを見失わずにいられる心を持ちたいと思う。でもきっとそんなことを考えなくても大切なことは自分の魂がちゃんと覚えていてくれ。心配しなくて大丈夫、きっと人と人の魂は深い部分で繋がっている。この頃そんなことを考えている・・・。 |
| おはなしでてこいスペシャル2004 H16.11.13 今年も11月13日第二土曜日にお話出てこいのスペシャルを開きました。 大それた物ではないですがそれでも企画から準備まで、結構時間がかかりました。 当日は親子で100名あまりの方々が見にきて下さいました。 絵巻の「おおきなおいも」は30mもあり、絵本を書き写す作業も大変でした。 また、巻いた物をまた巻き戻す作業が結構大変で、何回も練習ができませんでした。 また巻き上げ担当の人は体力的にも大変でした。 何はともあれ無事に終わり、ほっとしています。
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| 「他力」 五木寛之 「他力」の中にこんな言葉があった。・・・「最近の免疫論の中から導入された、<地球免疫論>という考え方があります。この理論は、地球を1個の生命体と考えて、生存する草木や動物や人間を、地球が<自己>か<非自己>かを判断し、自己の一部と見なせば<寛容>し、<非自己>の場合は拒絶的に排除する、そういう考え方です。」 ・・・星野道夫さんの「イニュニック」の中の「あらゆる生命は目に見えぬ糸でつながりながら、それはひとつの同じ生命体なのだろうか。木も人もそこから生まれ出る、その時その時のつかの間の表現物に過ぎないのかもしれない。」・・・ という考え方と繋がるような気がする。ガイヤシンフォニーの龍村監督の考える「ガイヤ」という考え方は、「母なる星地球は、それ自体が一つの巨大な生命体としての仕組みを持っており、私達人類もまた、その人智を越えた複雑、精緻な生命の仕組みの一部分として生かされている。」J.ラブロック「ガイア理論」からとられている。 |
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ウォン・ウイン・ツアン with 朝崎郁恵コンサート H16.2.7 於:みくに文化未来館 「Fragrance」から「インディアンサマー<冬の陽だまり>」、「九寨溝」から「水のうた、森のねむり」。 続いて朝崎さんが登場。奄美大島の島唄の第一人者。伴奏を三味線からウォンさんのピアノに変えての歌声。 休憩の後はウォンさんの新しいアルバム「海よりとおく」から3曲演奏された。 |
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明日からはお仕事なので、お休みの最後に今日は裏山の2番目の鉄柱まで登ってみた。白山は見えなかったけど、赤兎山や取立山、法恩寺山・経が岳がよく見えた。鉄柱のすぐそばに松の木が4〜5本ある。中の1本が枯れかけていた。一昨年あたりから松や楢の木がたくさん枯れた。地球の温暖化が原因とも言われている。そう言えば松は青森とど松とか寒い地方の木かも・・・。 ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() ![]() |
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今村葦子さんの「ブナ森のキッキ」という絵本がある。11月に名古屋の恒平さんのコンサートへ行く時、福井の駅ビルの二階にある古本屋さんで見つけた。ブナ森に住むリスのキッキのお話。一月はお話出てこいの当番なので、図書館に選書にでかけた。そこで続編の「ブナ森のなかまたち」と「ブナ森の子」を見つけた。 |
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ピアノの講師をされている木下先生の呼びかけで始まった何でもライブ。
木下先生は水泳が全くダメだったのが、水泳教室に通うようになり泳げるようになった。水泳が全くできなかった自分が泳げるようになったのだからと、音楽を全く経験したことにない人にも音楽の楽しさを知ってもらおうと始めたのがきっかけ。 Part1は主に小学生を中心に、ソロやアンサンブルの曲。「耳をすませば」「となりのトトロ」「鉄腕アトム」「ひょっこりひょうたん島」「サザエさん」などのアニメや漫画の主題歌やクラシック、ビートルズの「オブラディ・オブラダ」「Let It Be」、ニューミュージックや流行の曲目。 Part2は主に中学生から大人まで。「G線上のアリア」「輪舞曲(ロンド)」「ソナチネ第三章」などのクラシックをエレクトーンやピアノの演奏で弾いたり、「涙そうそう」をフルートとエレクトーンのアンサンブルでしっとりとした曲に仕上げたり。ヴォーカルと演奏の「世界に一つだけの花」、中年の「勝手にシンドバッド」などなど。 友人からいつも音楽を聴いているだけでなく自分も楽しまないか・・・と言われて、昔ちょっと楽器を習っていたとポロッと漏らしたのが口は災いの元だった(^_^;)。習っていたというよりは、練習もせずにサボってばかりいたというのが実際の所である。と言うわけで音楽を楽しむどころか、音楽に苦しむ羽目に陥ってしまった私・・・。音楽ではなく音苦(^^;)。 プログラム 1 ソナチネ第三章 Simada(P)
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「魔法のことば」を読み始めた。県立図書館でこの本を借りるとき友人がなぜ魔法のことばというタイトルなんだろう?と言っていた。私も始めはそう思っていた。読み始めてすぐに理由がわかった。星野さんの講演の言葉を聞きながら、自分の思いが自由に羽を持ったように駆けめぐってゆくからだ。新しいあるいは懐かしい思いを誘発する言葉。だから魔法の言葉だったんだと思った。池澤夏樹さんの解説がいい。 |
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職場にやってきた移動図書館で何気なく借りた本だった。パラパラとページをめくりながら読んでいたら、引き込まれるような言葉がいくつかあって、読みかけの本を横に置いて一気に読んでしまった。いい本だった。たとえばこんな言葉。 |
| おはなしでてこいスペシャル2003 |
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池澤夏樹さんの本の帯の言葉、「星野をめぐるリン・スクーラーの回想を読んで、ぼくは、もういちど星野に会えたような懐かしさを感じた。」という文章に惹かれてこの本を読み始めた。思春期に脊柱側湾症を発病し内向的な性格を強めたリン・スクーラーは人に心を許さないで生きてきたが、誰でも素直に信じる星野さんの人柄に触れて、星野さんに心を許していく。回想の中の星野さんは暖かくて人なつっこい。いい写真を撮るためにかなりの危険を冒し、ガイドと客という関係を越えた友情を育んだ。 |
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随分前に、母が入院していた病院でモンゴルの写真が何点か展示してあった。その中の1枚の写真になぜか心をひかれた。今となっては記憶が随分曖昧になっているが、青空の中に真っ白いパオがあるかなり大きなサイズの写真だった。雄大なモンゴルの草原の青空の中のパオ、そこにかかる大きな虹・・・。モンゴルへは行ったこともないし、行ってみたいと考えたこともないのだがなぜか心ひかれる写真だった。シーナさんが映画「白い馬」を撮っている頃で、モンゴル行きの飛行機に乗ると独特の乳臭い匂いがすると書かれていたが、そんな記憶が心のどこかにあったのかもしれない。アマチュアの写真家の方が撮られた写真だったと思う。 山に登るようになって記録用にデジカメ写真を撮るようになった。写真を撮ることが主ではないので、時間をかけていい写真を撮るというよりは、きれいだなと思った瞬間を簡単に撮って残しておきたいという単純な理由からである。在るがままに在るように撮りたいと思うのだがそれがなかなか難しい。たかがデジカメ写真だが、なかなか奥が深い。何を撮りたいのかがはっきりしない写真が多くて、写真もやっぱり余分なものをそぎ落としていくことが大切なのだろう・・・。 |
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「ガイアシンフォニーV」を見た。 |
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福井新聞に連載されている、「医師の目人の目」の徳永進さんのエッセイにいつも心を惹かれる。今日も肺ガンの患者さんのもう間もなく臨終という床で、地区のお寺の住職が「観無量寿経」を唱えられてたことが書かれていた。 「若い住職の魂が入った、あらゆるもの・ことに光をという無量寿経で、静かな温かなお経だった。医師になって初めて病室でお経を聞いた。」 と書かれている。普通は亡くなってから読まれるお経が、亡くなりつつある魂に向かって読まれる。宗教とは本来こういうものなのだろう。 |
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松井久子監督の映画「折り梅」を見た。舞台は愛知県豊明市。アルツハイマーの初期症状の母を引き取る家族の物語。アルツハイマーを病む母を色んな思いで見守る家族。自分が自分でなくなっていくことに恐怖感を持ち自信を失っている母親自分自身が一番辛いのだろう。その怒りや恐怖感、いらだちを嫁にぶつける。 様々な葛藤の中で、母が絵を描くことに才能があることがわかり、そのことで自分に自信を取り戻して行く。そうして家族が立ち直っていくという実話をもとに作られた映画。 人間は誰もいつか年をとって死んでいく運命にあるのだが、つい目の前の忙しさに紛れて普段は忘れている。どんな自分でも生きていていいんだという共感、「どんなになっても母さんには生きていてほしい」という息子の言葉に共感する。 |
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西アフリカのシエラレオネ共和国へ国境なき医師団の医師として活躍する著者の奮闘記。ここは平均寿命25才という世界で最短の寿命、一番悪い乳幼児・妊産婦死亡率・HIV感染の国。 国際協力の一番要は、自分がいなくなってもハイレベルな医療体制を現地スタッフでできる医療制度を確立すること、という信念に基づき現地の問題がずっと解決するまで援助を続けていくことが大切であると書いている。 朝6時から夜9時まで土日もなく医療活動を行う毎日。6ヶ月の滞在期間中に共和国13州中5州の医療体制を最終的に確立する。 国際協力のキーワードとして6つをあげている。 1 教育とその後のシステムの確立 謙虚に今でも国際協力の形がこれでよいのか、自己満足の世界ではないかという迷いがあると書かれているが、戦闘下の国でこんな活動をされている方がいることに素直にスゴイなと思った。 |
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ここのところ通勤のBGMは、ポール・マッカートニーの「ドライビング・レイン」。ドライビング・ジャパンのツアーで歌われた3曲はやっぱり良い曲だ。気分が沈みがちな時には、「ドライビング・レイン」をヴォリュームを上げてガンガン聞く。リピートをかけて何回も聞く。体でリズムをとりながら・・・。ポールの曲はやっぱりメロディーがいいと思う。 |
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ガン検診の待ち時間に、遠藤周作さんの「満潮の時刻」を読み始めた。病院で、入院生活の本を読むのも何だかな〜という気がするが・・・。 読書会で久しぶりに「深い河」を読んだ。神の愛を大津という青年を通して真っ正面から描いた作品で、この作品からも深い感銘を受けた。「満潮の時刻」は「沈黙」と平行して書かれた作品だとか・・・。この3冊はキリスト教の神の存在について、形を変えて追求している。 「満潮の時刻」は、結核で二度手術に失敗して入院中の明石という人物を主人公として描かれる。長崎の異人館で見た踏み絵に付けられた親指の黒ずんだ足跡から、イエスの許しのまなざしを感じるという作品となっている。 神の存在という根元的な問題について、生涯にわたって真摯に向き合った作家と言いきってしまってよいのかわかならいが、自分の中では遠藤周作という人はそんな分類に入っている・・・(^^;)。 |
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効率化を追求する今の時代の方向性は、これで本当によいのかという疑問がいつもあった。そんな疑問に答えてくれそうな本だと思い読み始めた。 「マネーを至上のものとする価値体系が世界を巻き込み、いっさいの例外を許さないという勢いで着々と築かれつつある・・・」という言葉。人間でさえも例外ではない。教育も同じ。本当にそれでよいのだろうか? ・・・・ 「カネとモノのムダを少なくするためには人間をムダにしてもよい」というような倒錯した価値観の支配する経済社会とは、いったいどんな社会なのか。いま少し立ち止まって考えるべきときがきているのではないでしょうか。 「高度失業化社会」と私は呼んでおりますが、そういう社会の何よりの特徴は、経済、企業の合理化、効率化、リストラなどを大義として、「人間はムダにしてもいいんだ、切り捨てよう」とする社会。そうなりますと、結果において、社会全体としての潜在力は確実に失われていきますね。 あたら有能な人材がリストラ、倒産、そして失業へ、となれば、その人たちの人間能力を生かすこともできない。社会的損失も大きいでしょう。閉塞感は強まり、人々の不安、不満も高まっていく。あげく、やってくるのが、活力喪失社会であり、結果において失業者はますます増える。 そうではなく、逆に人間を大切にする、どのような事態のもとでも、モノ、カネよりもヒトが大事なんだ、それを当然とする徹底した価値観があれば、雇用のチャンスもまたおのずから生み出すことができる。介護、医療にとどまらず、人々が求める「社会的有用労働」の分野は常に人手不足の領域なんですから。・・・ 終身雇用制度には問題が多いのかもしれないが、若い人たちが安心して働ける職場、安定した収入を得られる職、結婚して子供を産んで、学校にも行かせて、家も建てられるそんなささやかな夢さえも今は見ることもできないとしたら、それはどこかが間違っているような気がする・・・(^^;)。 若い人たちが未来に夢を持てないで、不安を感じるのも無理もないという気がする。 経済関係の本は、ほとんど読まないが、この本は色んなことを考えさせてくれた。いい本だった。 |
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高知県の教育長である著者の教育に対する熱い思いが書かれた本。ノートに書き写しておきたい言葉がたくさんあった。 「教育とは子どもという希望に向かって、信頼のメッセージを送り続けることではないだろうか。裏切られることもあるだろう。現実はそんなに甘いものじゃないと言われるかも知れない。しかし、子どもへの信頼が根底になければ、教育は成り立たないのではないか。」 「ぼくたちは今、見せかけの繁栄、虚構の豊かさの影で、まことに希望の少ない時代を生きているといえないだろうか。・・・ 「読売新聞日曜版の『絵は風景』という連載をごくたまに読む。・・・平成10年2月1日付けのそれでは、四竈公子さんの『めざし』が紹介されていた。・・・『人通りの多い道じゃない。自分の見つけた小道を行き、自分にとって価値のあるものを見いだしたい。はずれた一つこそ、私には意味がある。』・・・画面いっぱいに丸い座卓。その上にメザシが六匹。画面の中央に固まって五匹、左上の方に無造作に転がされて一匹。暗い色調の、美しくはない絵。それだけの絵だが、孤独な一匹に注がれる四竈さんのまなざしが、ぼくの『想い』につながる。・・・ 「人の心の痛みへの想像力を持つこと、人生で一番大切なことはそのことだとぼくは思う。」 「人生の本当の価値とは、やさしさを知ることだと思う。」 高知県教育委員会大崎教育長のページ http://www.kochinet.ed.jp/somu/kikaku.htm やさしさとは、想像力だと思っていたが、同じ考え方の人がいた・・・(^^;)。 |
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米倉さんの「道化口上」を読む。西日本新聞に連載されたエッセイを1冊にまとめたもの。宇野重吉さんを師と仰ぎ、演劇の道を歩いた軌跡が書かれている。現在は民芸を退団してフリーで活躍中。なかなか味わいのある本だった。 |
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勝山読書会お話出てこい係は、毎月1回第2土曜日に勝山市立図書館で、絵本の読み聞かせ「お話出てこい」を開いています。 @手遊びT「グー・チョキ・パーで何つくろう」 9月末から毎週火曜日に練習を始め、11月の第2週に入ってからは毎日の練習。
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荒土小学校のPTA研修部主催の「みんなおいでよ!!おはなしランド」を聞きに行った。7時からと聞いていたので、7時に行ったら時間が変更になっていて6時からすでに始まっていた・・・(^^;)。後半を聞いた。 ![]() ![]() |
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経が岳に行った時に、こつぶりさんがこのCDを持って来て下さった。ピアニストのウォンさんが童謡を弾いているのだが、童謡を遙かに超して魂を揺さぶるような音楽に仕上げているような気がする。という訳で、このCDを買ってみた。ピアノの深い音色が心に響いてくる。長い年月をかけて歌い継がれて来た曲は、やっぱり腐らない。曲名は以下のとおりです。 @故郷 ウォンさんはこう書いています。 「このCDは、過去の贈り物である童謡をどう引き受け、音としてどう刻印し、連綿と続いてゆく『いのち』の群に託すことができるかという音楽家としての私なりの儀式であり、そして祈りです。」 H14.10.11 |